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INTERVIEW インタビュー
デジタルコンテンツの未来
〜温故知新〜
CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はインタビュアーの野口がプロデュースした劇場CGアニメ『楽園追放 -Expelled from Paradise-』(2014)の制作において、当時グラフィニカでチーフアニメーションプロデューサーを務めた吉岡宏起氏に登場していただいた。同作の話はもちろん、アニメ業界にさまざまな人材を輩出したゴンゾの話、そしてENGIを設立するまで駆け抜けたCGプロデューサーの哲学と経営の考えをたっぷりと語っていただいた。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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人生を変えた教養科目の先生の一言
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):吉岡さんはゲーム業界を経て現在はCG・アニメの制作会社の代表を務めていらっしゃいますが、学生時代からこちらの業界に興味が向いていたんですか?
吉岡 宏起(以下、吉岡):アニメもゲームも嗜んでいましたが、高校生の頃は法曹界で検察官の仕事をしたいと思っていたんです。大学受験のときも法学部ばかり受けて、唯一受かった近畿大学に進学しました。
野口:その頃はお堅い仕事を。でも法曹関係のなかでも弁護士ではなく、検察官に?
吉岡:はい。当時は警察の不祥事が続いていて、それを取り締まる仕事は何かと調べて、検察の仕事に興味を持ちました。入学後も刑法を専攻していたんです。ただ、3回生のときに一般教養で文学の授業があって、その先生が「皆さんはこれから法律の仕事に就くでしょう。そこでは法の枠のなかで深掘りしながら、解釈を突き詰めていくことになります。でも文学はその逆なんです。枠というものを飛び越えないと何も進まないんです」と、おっしゃったことに衝撃を受けまして。そこから、1週間ぐらいずっと考え続けました。そこで自分の人生で何かクリエイティブな仕事をやろうと思い立ったんです。
野口:その先生の一言が人生を変えたんですね。そこからゲーム業界を目指されたのは?
吉岡:大阪にゲーム会社が多かったからですね。大手の会社だけでなく、開発を専門に行なう小規模なディベロッパー(制作会社)もたくさんありました。それに比べると、関西にはアニメの制作会社はあまり多くありませんでした。アニメもゲームも嗜んでいましたので、もしアニメ会社がもっとたくさんあれば最初からアニメ会社を目指していたと思います。当時は今のようにネットで探すといったこともできませんでしたからね。
野口:ゲーム会社はどんな職種を目指されたんですか?
吉岡:開発でした。ただ、就職活動をするなかで、プログラミングの知識や経験がないと無理だということがわかったので、とりあえずパソコンを買ってBASICで簡単なゲームを作ったりしたのですが、本格的にゲームを作るにはC言語とかを学ばなくてはいけないことがわかり、大学卒業後に専門学校のHAL大阪のゲーム制作学科・プログラミング専攻に入学しました。別の業界で内定をもらっていたので、相当悩んだ上での決断でした。専門学校2年生になるとすぐに就職先を探すのですが、私は学校に来る求人ではなく、転職情報誌で探して応募したんです。そうしたら、某ゲーム会社からすぐにでも来てほしいと言われて、少しでも早く現場の経験を積んだ方が今後の糧になるなと思い、専門学校を中退して働き始めました。
野口:それはプログラマーとして?
吉岡:プログラマーとして応募したんですけど、プランナーで採用されました。面接のときに「最終的にはプランナーになりたいです」と伝えたところ、当時はプランナーが慢性的に不足していたらしく、そのまま採用されました。でも、その会社は入社して2年足らずで倒産してしまいました。そのあと会社で付き合いのある人が作った会社に入ったのですが、どうしても上司と価値観が合わず、しばらくして辞めてしまいました。思い悩んで、そこから1年間は日雇いでガードマンの仕事などをしていました。
野口:そのときは何歳でしたか?
吉岡:28歳〜29歳のときでした。そこから人材会社に登録して、リクルーターと面接して希望を伝えると、「経験もあるしゲーム業界が向いていると思います。ただ、ゲームにこだわらず近似値の仕事を通じてスキルを貯めていくのも良いかもしれません」と言われました。それで出した6社のうち、戻ってきたのが東京のITベンチャーでした。採用担当は「履歴書見た瞬間、ビビっときた」と。本当は大阪の会社が良かったのですが、その他の会社からは返事がなかったので、これはもう縁だなと思って、それで上京しました。
野口:その会社ではどんな仕事をしていたんですか?
吉岡:昔、ガスト(ファミリーレストラン)にタッチパネルの端末があったのって覚えていますか? その端末の運営会社だったんです。ゲームとか占いとかのコンテンツを作る会社があって、それを端末の仕様に沿って作ってもらったりプロデュースをしたりする会社です。僕も当初はプロデュースの部署を希望していたんですけど、業務管理という、店舗ごとの売上とか、コンテンツ別売上とかを分析したりとか、インフラコストを管理したりする部署に配属されました。
野口:それは今の社長業に役立っているのでは?
吉岡:そこは繋がっていると思います。普通のゲームのプランナーだったら全体を見渡して細かい数字を見ることはありませんからね。ところが、それを見ていたことが2年後の退社に繋がったんです。事業の損益の仕組みなど数字を精査していると、いろいろ事業会計の考え方がみえてきて(笑)。それでこっそりキャリアアップのために就職活動を始めました。そのときにゲーム業界に戻ろうか、せっかくだしつかみだした事業会計の感覚を活かしてIT業界に行くかまよったのですが、転職活動をする中で、ゴンゾがコンテンツプロデューサー職を募集していたので受けたところ、内定をいただきまして転職したというわけです。
野口:それまでゲーム業界で働いてこられましたが、アニメにも興味があったんですか?
吉岡:ゲーム業界は一通り経験したし、今後またゲーム業界に行くにせよ、一度アニメ業界を見ておくのもいいかなと思って。あと、転職活動をしていたときに内定を頂いた他の会社がみんな関西だったんです。中には東京支社を持っている企業もありましたけど、いつかまた関西に転勤させられるかもって考えたら、東京にしかないゴンゾに入社するのが東京に残れる唯一の選択肢だろうと思ったんです。
2000年代中盤 ゴンゾ激動の時代
野口:ゴンゾではどんな仕事を担当されたんですか?
吉岡:面接ではデジタル部・CGセクションのマネージャーで入ってほしいと言われました。アニメCG業界でいう、CGプロデューサーの仕事ですね。前任者が辞めて、代理の人が兼任で見ていたタイミングだったそうです。それでゲーム会社でライトウェーブとか3D Studio Max とかを触っていたから、CGのマネージメントができるでしょうと言われて。ちなみに、2人前の前任者が「CG部を引っ張っていたパワフルな方」と聞いたのですが、後にそれがサンジゲンの松浦裕暁社長だったと知りました。
野口:あの頃はゴンゾにいろんな人材が集まっていて、そして多くの人材を輩出したんですね。
吉岡:そうですね。僕が最初に担当した『トランスフォーマー ギャラクシーフォース』(2005)も、後に『魔法科高校の劣等生』(2014)や『ソードアート・オンライン アリシゼーション』(2018〜20)を手掛ける小野学監督の初監督作品でしたし、他にもさまざまな方が今もアニメ業界内で活躍されています。
野口:アニメ業界での初仕事はいかがでしたか?
吉岡:入ったときはすでに第2話の途中まで作っていたときで、私は第3話の打ち合わせから入りました。ゲーム会社のときは絵コンテといっても、オープニングムービーの短いものに関わった程度だったので、TVの1話ぶんの厚みを見るのは初めてで、すごく感動したのを覚えています。小野監督のアクションは格好いいし、ラインプロデューサーの鷹木純一さんも丁寧に教えてくれて、周りはとても良い状況でした。ただ、その頃のゴンゾは全社的に、ものすごい数の作品を抱えていました。スタジオは5ラインあって、『爆裂天使』(2004)の班は作品が終わる前から次の『G.I. Joe: Sigma 6』(2005)に入り、他にも『巌窟王』(2004)、『戦闘妖精雪風』(2002〜05)、『SAMURAI 7』(2004)があり、さらに劇場作品『ブレイブ・ストーリー』(2006)を立ち上げる頃。『トランスフォーマー』に入ったのも、一番大変な現場だったからですが、上司からは「勉強を兼ねてここでやり方を覚えてもらったら、徐々に色んな作品を担当してもらいます」と言われました。
野口:吉岡さん以外にCGプロデューサーは?
吉岡:いませんでした。私も前任者が辞めてから入ったので、引き継ぎもなくて。部長が一度全タイトルを請け負って調整していた状況でしたが、パンク寸前でしたね。CGが少ない場合は撮影マネージャーの藤黒素子さん(現・グラフィニカ常務取締役)が見積もりを出したりアテンドしたりしていました。
野口:管理はどうしていたんですか?
吉岡:システム担当が2人だけでGDH(ゴンゾの持株会社)を含めた、当時の西新宿のビル全部を担当していました。制作の途中で止まったり、夜中に稼働しなくなったり、ネットワークがおかしくなったりしたら、その2人が担当するので、マネージメントにも大変な負担がかかりました。そのため、デジタル部署の中でシステムに特化した人材を育てたりもしていました。
野口:当時、ゴンゾではどんなソフトを使用していたんですか?
吉岡:ライトウェーブがメインですね。記憶ではライセンスが28+予備の分があって、これで『戦闘妖精雪風』、『巌窟王』を作っていました。『爆裂天使』の後半と『G.I. Joe: Sigma 6』の頃にはもう3ds Maxを使っていました。シェーダーはプラグインの「Illustrate!」、レンダリング管理は「Backburner」。ライトウェーブは標準のセルシェーダで、レンダラはLightNetを使っていました。『ブレイブストーリー』ではMacとMaya 2005に切り替えています。このときはファイルサーバーから何から全部Mac製品で揃えていました。編集も3〜4部屋あって、Inferno以外は持っていたと思います。
野口:CGプロデューサーの仕事を続けていって、作品のプロデューサーになられたわけですが、吉岡さんの最初のプロデュース作品は何になりますか?
吉岡:世に出たのはNHK「アニ*クリ15」の『火男(ヒョットコ)』(2007)ということになりますが、それまでに色々ありました。ゴンゾにおけるプロデューサーの定義から説明しますと、ゴンゾではクライアントとの契約とか交渉とかを含め、全部を取りまとめるのがプロデューサーなんです。CGプロデューサーは2Dとのハイブリッド作品で、CGパートだけを契約したり、納品までの責任を持つのが仕事です。その意味でプロデューサーの仕事は何作かやっていたのですが、製作中に企画が潰れたりして、表に出ない作品が続いていたんです。あるパイロットフィルムは、社内コンペ3本のうちの1本をソエジマヤスフミさんを監督に据えて作りましたが、これは企画自体が中止されてしまいました。そんななか、NHKの「アニ*クリ15」という短編企画を石川(真一郎)社長が持ってきて、そのうちの1本をソエジマさんが監督を務めることになり、監督から「プロデューサーは吉岡さんで」とお声がけを頂いて、別作品のCGプロデューサーをしつつ、『火男』のプロデューサーをしていました。
グラフィニカ設立と『楽園追放』
野口:グラフィニカを立ち上げたのはいつになりますか?
吉岡:ゴンゾの経営が傾き出して2008年の夏にリストラ案が出て、秋口に経営陣に呼ばれました。それまで経験を蓄積したデジタル3DCG部のチームがバラバラになるのはもったいないと考えた私自身も、知り合いの伝手で全員を引き取ってくれるところを探しました。いろいろありましたが、結果としてゴンゾ側も引き取り先との交渉に乗り出し、そちらで話がまとまりキュー・テック(現:株式会社クープ)に事業譲受をして発足しました。それが2009年春のことでした。
野口:キュー・テックは何のために買収したのでしょう?
吉岡:これまでのCGや撮影の仕事を通じて営業ができ、そこでキュー・テックの本業である編集やポスプロの仕事を取れると考えていたと思います。実際、ゴンゾ時代の後半は実写VFXやゲーム、遊技機、PV制作の仕事などをしていましたからキュー・テックには行くことが多かったです。グラフィニカでは設立の時点で元請け制作は考えていなかったのですが、OVA『HELLSING』のプロデューサーが8巻以降(2011~12)の制作を依頼してきたんです。
野口:そのときグラフィニカにはどれだけの部署があったんですか?
吉岡:ゴンゾのデジタル部が移籍したので、3DCG、撮影、色彩設計、編集しかいませんでした。私が3DCGチームを、藤黒さんがそれ以外を見ていました。なので、作画チームは私がゴンゾ時代の伝手を使って1から集めたんです。ゴンゾも西新宿にいた頃は広いワンフロアの端から端まで距離があったので、ほとんど交流がなかったのですが練馬に移ってからは規模も小さくなり、喫煙所での会話だったり飲み会だったりが開かれて、さまざまな部署との交流が生まれました。そこで知り合ったアニメーターに入っていただいたりもしましたね。
野口:元請けをし始めたのは『HELLSING』からですか。
吉岡:そうです。それまではポスプロとか、CGパートとか部分的な工程を請けていればいいと経営陣が考えていたのですが、これからは元請けを取っていかないと、今後は勝てないというプレゼンを行い、納得してもらったんです。
野口:グラフィニカでは『HELLSING』の後はどんな作品を手掛けていたんですか?
吉岡:海外の会社も含めた数社協業での2Dと3Dのハイブリッドの作品の座組に取り掛かっていたのですが、諸般の事情で撤退をすることになり、しばらくは請ける企画を選んで、無理に元請を受注せずに遊技機やアニメのカット制作営業などに専念していました。そんな折に届いたお話が、『楽園追放』だったんです(笑)。
野口:待ってました(笑)。こちら側の話をすると、当時東映アニメーションの社内では請けることができなくて、いくつかのCG会社に当たったのですが、なかなか引き受けていただける会社がなく、なぜならまだまだCGアニメの映画1本作れるかどうかわからなかった時代でした。そんな時、東映アニメーションの社内スタッフと話していたら「グラフィニカはどう?」と推薦されて、電話をしたという流れだったんです。
吉岡:そうだったんですか。それでシナリオを頂いて、私はまず「監督に会わせてほしい」と言いましたよね。
野口:そうそう。あれはどんな理由からだったんですか?
吉岡:監督に会って話すと、ローエンド程度でいいのか、それとももっとハイエンドのものを求めているかも分かりますし、それによってどれだけコストをかける必要があるか、利益はどのくらい出るかも弾き出します。その上で請けるかどうかを判断します。
野口:なるほど、そういうことだったんですね。こちらとしても良いスタッフに恵まれた作品だったと思います。
吉岡:ありがとうございます。それまで経験を積んできたスタッフが存分に力を発揮してくれました。あの後でまたスタッフが抜けたりしたので、とても良いタイミングだったと思います。
野口:その少し前から『ガールズ&パンツァー』(2012〜)もあり、グラフィニカの知名度が業界内外に大きく知れ渡ったと思います。その後、吉岡さんは?
吉岡:おかげさまで、いろいろなところからお話をいただくようになりました。ただ、自分のスタイルとしては変わらず、シナリオから一緒に作れるのかどうかとか、規模感とか作品性で判断して作品を選んでいました。
野口:それはどうして?
吉岡:どんなタイトルでも本気で取り組みますが、やっぱりヒットさせた後って、先方の期待も大きいわけです。そうすると、上手く行かなかったときに「外された」という思いがどうしてもでてきてしまう。だからこそ、安請け合いはできないという思いがあり、敢えて厳選させていただきました。会社としては『HELLO WORLD』(2019)を作りましたが、私は別ラインで海外タイトルを進行させていました。これはいろいろな事情で形にならなかったりして、私は辞める決意をしていました。会社側に伝えたのは2017年の12月の頭ですが、その前から「ウチに来ませんか」とか「一緒に会社を立ち上げませんか」というお話を頂いていました。そのなかで具体的に動いてくれたのがサミーさんだったんです。そして演出家の三浦和也さんも加わってくれて、2018年にENGIに参加しました。以降、三浦さんが看板監督として多くの作品を手掛けてくださっています。
ENGI設立 急成長の理由と『GAMERA -Rebirth-』
野口:設立から5年で多くの元請けタイトルを制作し、あれよという間に急成長を遂げられた印象があります。
吉岡:ENGI自体がKADOKAWAの子会社ですから、設立の時から基本的に元請けの仕事しかしないようなスケジュールと体制を組みました。制作するタイトルは基本的にはKADOKAWAの作品です。弊社には企画部がなく、制作プロデューサーとKADOKAWAの企画部のプロデューサーが役割分担しながら連携して動くんです。製作委員会もKADOKAWAとサミーが入ってくれるし、現場も尊重してくれるので、とても作りやすい環境です。
野口:最初は『旗揚!けものみち』(2019)ですか?
吉岡:正確に言うと、最初はトムス・エンタテインメントさんの『千銃士』のグロス請けでした。まだそのときはKADOKAWA作品の準備ができていなかったので。そのときはスタッフも集めながら、ENGIとしての作り方を模索していました。
野口:現在はどのくらいの規模になっていますか?
吉岡:スタッフでいえば作画が70数名、CGが40数名で、拠点は東京のほか、倉敷と札幌にスタジオがあります。
野口:倉敷のアニメスタジオというのは珍しいですね。作画スタジオは従来だと関西とか、CGでも札幌や福岡あたり以外では難しいとされていました。
吉岡:岡山にある専門学校の先生が知り合いで、グラフィニカ時代から相談を受けていたんです。やっぱり地方でスタジオを立ち上げるときには地元の人が不可欠です。これは設立当初から事業計画に入れていて、ENGIを設立した経営陣からも「岡山に設立して本当に大丈夫なのか?」と念を押されながらもなんとか設立まで漕ぎ着けました。ところが、2020年4月にスタートしてすぐコロナ禍になり、研修生がいきなり自宅待機になったり、デジタル作画のツールなどを用意したのですが、最初からつまずいてしまい、フォローにも苦労しました。
野口:そして9月からは初のCG元請けタイトルの『GAMERA -Rebirth-』がNetflixで配信がスタートします。
吉岡:瀬下寛之監督は本当に怪獣映画がお好きな方で、キックオフのとき先程のように方針を伺ったところ「どの怪獣も優先したいです」と言うんです(笑)。その結果、ガメラのほか敵対する怪獣が何体も登場する、非常に豪華なつくりになりました。瀬下監督はストーリー面の方にも携わり、とても力を入れて作品に向き合っていただけました。
野口:瀬下さんとの仕事はいかがでした?
吉岡:最初はバチバチでした(笑)。ウチはプロダクションとしてのCGの作り方が、瀬下さんは瀬下さんでこれまでのCGのキャリアに基づいた作り方があるというので、ちょっと噛み合わなかったところもあったんです。でも、シナリオハンティングで遠方の島に行って、いろんな景色写真撮りながら、「こういうアングルで、こういう効果で」と、彼の映像演出論を聞いていると、「なるほどな」と価値観が分かるようになって、それからは仲良くなりました(笑)。
野口:公開を期待して待ちたいと思います。最後に、これからの日本のアニメ、CGはどうなっていくと思われますか?
吉岡:最近のCGの場合は特に、大きなバジェットの作品を取ることにこだわりすぎているような気がします。それよりも、ある技術や表現に特化した小さな規模のCGプロダクションはその分野で存在感を示していますし、依頼もひっきりなしです。お金をそこまでかけずとも、デザインとか世界観からCGで担当させてもらえるような作品でヒットを狙い、そこで当たったものを一段上のIPとして育てていった方が良いのではと。ただ、そういうふうにデザインをゼロから起こしたりする部分に、投資をする考えを持った会社はまだ少ない。何がヒットするかって、この業界は特に分からないじゃないですか? だからこそ、考えを変えて行く必要があると思います。もちろん弊社もそれを行なっていくつもりです。
- 吉岡 宏起
- 株式会社ENGI代表取締役社長。大学を卒業後、ゲームプランナーとしてキャリアをスタート。その後、株式会社ゴンゾ、株式会社グラフィニカに在籍。担当作品として、『火男(ヒョットコ)』(2007)、『ドルアーガの塔』(2008~09)、OVA版『HELLSING』第8~10話(2011~12)、『ストライクウィッチーズ Operation Victory Arrow Vol.1 サン・トロンの雷鳴』2014)、『楽園追放 -Expelled from Paradise-』(2014)、『ガールズ&パンツァー 劇場版』(2015)、『ガールズ&パンツァー 最終章』(2017)などがある。2018年6月にENGI入社、『旗揚! けものみち』(2019)、『宇崎ちゃんは遊びたい! 』(2020)、『SHOW BY ROCK!! STARS!! 』(2021)などを手がけ、2021年6月21日、同社代表に。 “熱きSAMURAI魂”のアニメプロデューサーである。
INTERVIEWER : | 野口光一(東映アニメーション) |
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EDIT : | 日詰明嘉 |
PHOTO : | 弘田充 |
LOCATION : | ENGI 東京本社 |