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INTERVIEW インタビュー
デジタルコンテンツの未来
〜温故知新〜
CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はNHKで長らくVFXアーティストやスーパーバイザーを務めた松永孝治氏に登場していただいた。子供の頃から映像とコンピュータに親しんでいた松永氏の特徴は、初期のうちから見えないものを表現する「CG」よりも実写と合成する「VFX」に興味関心が向いていたこと。当初、NHKでは報道やドキュメンタリー番組等での説明系CG制作をメイン業務としていたが、徐々にCGも含めデジタル技術を用いたVFXに移行していった。ドラマでのVFX利用の黎明期から携わってきたが、今ではドラマ制作にVFXは不可欠な存在となった。現在は退局しフラットな立場で作品制作に携わったり、キャリアや人脈を生かしたVFX団体活動を目指している。『ゴジラ-1.0』で日本のVFXが注目を集める今日、これからの日本のVFX業界を担うキーパーソンのひとりだ。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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コンピュータと映像機材の両面から映像クリエイターに
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):松永さんと私が最初に出会ったのいつでした?
松永 孝治(以下、松永):2009年(放送)の『坂の上の雲』(※)の第1部の制作のときですね。2005年か2006年くらいでしょうか。当時のNHKでは海のCG表現やハイクオリティなVFX制作が難しかったので、R&Dやいろいろなテストをしていました。しかし、大規模な作品において「VFXスーパーバイザー」が何をしていいのかをあまり理解していなかったので、VFXの事が分かる誰かを呼ぼうということで、『男たちの大和/YAMATO』(2005年公開)のCGSVをやっていた野口さんに来ていただきました。ほぼ常駐でNHKに出向して下さって、現場での作業とか管理工程、VFXプランニングやプリビズ、演出との関わりなどを教えていただきました。
(※)『坂の上の雲』
司馬遼太郎原作のテレビドラマ特別番組。大型プロジェクト「プロジェクトJAPAN」のひとつ。NHKで2009年から11年にかけて3部(全13話)構成で放送された。第38回放送文化基金賞番組部門(テレビドラマ番組)本賞を受賞。日露戦争などを大規模なVFXで描いている。
野口:それでは、その頃の話は追々伺うとして、VFXアーティストである松永さんは、SFX映像が好きでこの道に入ったのか、それともコンピュータに興味があったのか、最初の一歩を伺いたいと思います。
松永:両方ありますね。最初はコンピュータかな。僕は1970年生まれなんですけど、小学校6年の頃には地元(山口県宇部市)の電気屋さんにもマイコン(当時はまだパソコンとは言っていなかった)が並び始めたんです。NECのPC-8001とか、PC-6001、あと富士通のFM-8、東芝のパソピア、シャープMZ-80KやMZ-700とかそういうのが置いてあって、それら店先の商品を触って遊んでいたんです。田舎の個人営業の電気屋さんだったので、当時は僕たちが遊んでいても怒られませんでした。
野口:それでゲームをやっていたということですか?
松永:そうですね。「マイコンBASICマガジン」(※)にゲームのプログラムが載っていたので、それを見て、何時間もかけてプログラムを打ち込んでからゲームで遊んでいました。当時は子供ですから、もちろん保存できるディスクもテープも持っていなかったので遊んで帰る時に電源を落とすとすべて消えてしまいました。あと、コロコロコミックに連載されていた『ゲームセンターあらし』のすがやみつる先生が『こんにちはマイコン』という入門書を出されたので、それでBASICも覚えて、プログラミングをもっとやりたくなって、マイコンを親にねだったんです。そうしたら「知り合いが売っているセガのホビーマイコンなら買ってやる」と。
(※)「マイコンBASICマガジン」
1982年から2003年まで定期刊行されたパソコン雑誌。通称「ベーマガ」。電波新聞社刊。コンピュータ機器やゲーム情報のほか、読者のプログラミング投稿が掲載され(賞金が出る)、全国のプログラマの知識向上に貢献した。
野口:セガの家庭用ゲーム機ではなく、“マイコン”ですか?
松永:初期(1983年)に「SC-3000(29,800円)」という機種を出していたんですよ。まだMSX(※)もない頃でした。父親はふすま職人をしていた古い人間ですが、手に職をつけることを大切にしていたので、どこかで「これからはコンピュータの時代だ」と聞いたんでしょうね。それで買ってもらったSC-3000でずっと勉強をしていました。すごくマイナーな機種だったので、ベーマガにゲームが載らない月とかも結構あって(笑)。他の機種用のプログラムを自分で移植して何とかSC-3000でも動くようにしていました。地元の国立宇部高専の電気工学科に進学する時に、「合格したらつくば万博に行くか、新しいパソコンをお祝いで買ってあげる。どっちがいい?」と言われ、迷わず当時欲しかったシャープのX1turboというパソコンを買ってもらいました。結構高かったので親には感謝しています。X1turboでもプログラムの勉強をし、BASIC以外にもZ-80のハンドアセンブルをやったりとか、いろいろとプログラムを覚えてベーマガや他のパソコン雑誌に投稿したりしていましたけど、あまり採用されなかったなぁ(笑)。
(※)MSX
1983年にマイクロソフトとアスキーが提唱したパソコンの共通企画。コンピュータの入門機として構想された。BASICが組み込まれていたほか、ゲーム機としても利用ができた。主な参入メーカーはソニー、パナソニック、三菱電機、日立、シャープ、カシオ、ヤマハなど。
野口:その頃、VFXでなくSFXと言っていた時代かと思いますが、SFX映像の方はどんなきっかけで興味を持たれたんですか?
松永:それはスピルバーグの『E.T.』(1982年公開)ですね。田舎だから映画館なんて街に1軒しかなかったんですけど、初めて自分のお金で見た洋画がこれでした。自宅から1時間かけて薄暗い映画館に友達と行きました。もう、「なんと面白いんだろう!」と。映像作品というもの自体に興味が向きました。レンタルビデオ店が増えてき出した頃で洋画をたくさん見て、一時期は映画監督になりたいと思っていました。当時は著作権の理解が世間で浸透しておらず、違法コピーした映画が普通に棚に並んでレンタルされていましたね……。
親に買ってもらったX1turboは「パソコンテレビ」と呼ばれていて、NTSCのビデオ信号を入れてデジタル加工をしたり、スーパーインポーズができるものだったんです。それらを使って映像を加工して遊んでみたりしていました。その後、高専の修学旅行で東京に行ったときに、アルバイトで必死に貯めたお金で秋葉原で8mmビデオカメラを買って、撮影や編集をし始めるとこれがまた楽しくて。今でこそスマホで撮影やいろいろなことが出来ますけれども、当時は撮影機材を個人で持っている人は田舎にはほとんどいませんでした。
野口:ここまで色々機材を購入していますが、編集機はさすがに持ってないですよね?(笑)
松永:ええ(笑)。だからビデオデッキを二つ置いて同時に再生・録画をするやり方です。同期する機器は持っていなかったので、手動で再生ボタンと録画ボタンを押して編集していました。でもそれだけで面白かったんです。他にもガンプラをコマ撮りしてショートビデオを作ったりとか……。あと、ちょっと戻りますけど、高校2〜3年の頃にはベーマガを卒業してもう少しハイレベルな「I/O」や「Oh!MZ(のちのOh!X)」といった雑誌を購読していたのですが、そのなかにときどきCGの特集記事が組まれはじめていて、ワイヤーフレーム表示とか、マシン語によるレイトレーシングのソフトウェアが載っていたりして何日もかけてそのプログラムを打ちこみました。そしてコマンドでCG座標やプリミティブ形状を設定し夜中に走らせる(レンダリング)と、ようやく翌日1フレームのレンダリングが終わるみたいな。そういう風に、パソコンと映像機材の両面でこの道に入っていったという形ですね。ビデオカメラもCGも、「自分で映像を作れる」ということがとても新鮮でした。
NHK入局後も遠いCGまでの道
野口:NHKにはどのような志望動機で入局されたんですか?
松永:高専の同級生たちはほとんど電機メーカーや自動車メーカー志望でした。バブル絶頂期で生徒の数十倍もの数の求人がありましたが、僕はメーカーではなく映像の仕事をやりたいと決めていました。しかしどうすればその道に行けるかも学校の就職担当の先生に聞いても分からなかったんです。そうしていたら、NHKスペシャルで『驚異の小宇宙 人体』(※)とか、フラクタル理論をCGでビジュアル化した番組を観て、NHKに入れば映像やCGの仕事ができると思いました。でもウチの高専にはNHKからは求人票が来ていなかったので、山口放送局に自分で電話して求人票を出してもらい、試験を受けて合格しました。宇部高専でNHKに入ったのは初めてのことだったそうです。
(※)『驚異の小宇宙 人体』
1989年に6回に渡ってNHKで放送されたドキュメンタリーTV番組。50分番組のなかでCGのシーンが各回平均で10分以上もあり、当時としては例がないほど多くのCGが使われていた。
野口:入局後はどんなお仕事をされたんですか?
松永:僕は技術系で入ったので、配属された鳥取放送局で番組運行(東京から専用回線で流れてきたTV信号やローカル番組の管理など)や番組制作をしていました。若い時は適性を見るために、いろいろと研修を行うんです。照明や音声なども一通りやりましたが、僕は映像系をやりたくて、カメラマンを軸にしました。ドキュメンタリー番組のロケやローカル中継、高校野球の県大会中継なども担当していました。放送局に入ると、ホンモノのTVカメラや編集機を使えるのが楽しくてしょうがなくて夜中に自分で勝手に触って勉強していました(笑)。そうした経験のなかで、映像をいかに撮るべきかという基礎的な方法論を編集の視点から学んでいきました。
野口:CGはいつから作り始めたんですか?
松永:CXの『ウゴウゴ・ルーガ』やNHKの『音楽ファンタジー・ゆめ』(※)が放送されると話題になって、本当はすぐにでもやりたかったんですけど、東京のCG部に電話して聞いたら何千万円もするワークステーションが要るとか言われて、そんなの鳥取放送局で買えるわけがないから、なかなかできなくて。ただ、『ウゴウゴルーガ』はAMIGAで作られているという記事を見て、地方局の開発予算でA2000を導入しました。その頃、CGをやりたいという後輩と意気投合して、僕と彼は個人的にA1200を買いました。3DCGソフトはImagineで、モデリングやレンダリング、アニメーションを自分で作って、ローカル番組のタイトルや、『おかあさんといっしょ』の1コーナーのブルーバックの背景などを彼と一緒に作ったりしていました。
(※)『ウゴウゴ・ルーガ』
1992年から94年までフジテレビで放送された朝の子供向けバラエティ番組。シュールなアートのコーナーのほか、当時はまだ珍しかったCGやVRなどの技術を積極的に使用し衝撃を与えるとともに、これらの技術を広く認知させることに貢献した。
(※)『音楽ファンタジー・ゆめ』
1992年から99年までNHK教育テレビで放送された5分枠の音楽番組。CGアニメーションを駆使してクラシック音楽を映像化する。
野口:もう、それは鳥取局のなかのCG部みたいな存在だったんですか?
松永:いえいえ。本業はカメラとか中継とか番組制作なので、余分な仕事なんです。もともと地方局で当時はCG制作というものは求められていませんからね。でも、僕と後輩が提案するといろいろとやらせてもらえました。そうしているうちに異動のタイミングがやってきて、僕は東京のCG部に希望を出しました。でも、鳥取から東京のCG部に推薦してくれる人脈がなくて、ノンリニア編集をするVTR部署に異動となりました。そこでまたスタジオの送出をしたり、ノンリニア編集を学びながら映像の仕事をしていました。このときの僕の上司だったVTR部署の管理職がCG部署の管理職と同期で仲が良かったので、鳥取のときに作ったCGのデモリール(VHSテープ)を持っていってアピールしたところ、翌年にはCG部署に異動させてもらえました。これは前例のないことだったようですが、当時はCGを触りたい人間も多くなかったので認められたようです。異動の前の週に「UNIX」の本を数冊渡されて「これを読んでおいてね」と言われた時は焦りました……UNIXって何?(笑)。
野口:ついに念願のNHKのCG部に到達したわけですね。どんなようすでしたか?
松永:もう、驚きでしたね!当時はOpenGLがWindowsNTに搭載される前で、SGI(シリコングラフィックス)のワークステーションを使っていました。外部プロダクションに出せないような秘匿性が高い情報の映像化や緊急性を要するものの映像化、データ量の大きな地形表示などを急いで行なうために高スペックが求められていました。たとえば、選挙報道のリアルタイム表示とか、地震が起きたときの活断層の表示とか、原発とか……。そういうことがないときは、宇宙や恐竜の番組など、実際に撮れないものを可視化するためにSGIのワークステーションを使っていました。なのでCGデザイナーというよりは、プログラムを組んで可視化するような仕事が多かったですね。そこでC言語とかC++とかを覚えて仕事をしていました。でも、僕が本当にやりたかったのは、VFX制作だったんです。僕は『ジュラシック・パーク』に衝撃を受けた世代ですから。
野口:当時はVFXを使った映像作品はNHKではやってなかった?
松永:やっていましたけど、合成などは編集部署の仕事だったんです。デジタルビデオ編集(DVE)やリニア機器で実写合成を行なっていたのですが、少しずつ実写にCGを載せたい案件がでてくると、編集機だけではつくれなくて、僕らCG部署でもCG素材を出す事でVFX作業に関われるようになってきました。朝ドラの『まんてん』(2002〜03年放送)という作品では主人公が女性初の宇宙飛行士になる話で、その宇宙ステーションや地球をCGで作ったりとか、『芋たこなんきん』(2006~07年放送)では、当時大ヒットした『ALWAYS 三丁目の夕日』の影響で、昭和の大阪の広い通りを路面電車が走るショットを真似して作ったりとか。そのとき大阪放送局でVFX勉強会を開いて、『ALWAYS 三丁目の夕日』を実際に作った白組の高橋正紀さんと渋谷紀世子さんに講師として来ていただいて教わったりもしました。その後、『坂の上の雲』を始めるということで、最初の野口さんとの出会いの話に繋がります。
野口:ようやく戻ってきましたね(笑)。
VFXを活用した念願のテレビドラマ制作
松永:あと、このときぐらいから、外部の方と積極的に関わるようになりました。最初は野口さんが東映アニメの方を連れてきてくれたのですが、そればかりに頼ってもいられないので、僕がいろんなセミナーとか業界の飲み会に出たりして、フリーの方とも繋がっていくようになり、「今度『坂の上の雲』を作るんだけど参加しませんか?」って、誘ったりして。その付き合いが後の「呑んべぇJAPAN」(※)にも繋がっていきます。
(※)「呑んべぇJAPAN」
CGやVFX業界の横のつながりを作ろうと、松永と神央薬品のノブタコウイチにより立ち上げた飲み会グループ。約700人規模で参加している。
野口:『坂の上の雲』に参加してみてどうでした?
松永:僕たちはもう何にも知らないので、野口さんがやってるのを見て覚えていったって感じでしたね。
野口:こちらとしては、映画制作でやってることを同じようにやればいいという感じでしたね。そのとき私一人で行ったので、まず監督(テレビでは演出という)と喋って、何をやりたいかを聞くことでした。ただ、NHKは組織図が独特で演出が全ての絶対的なトップというわけでもないんですよね。海外の映像制作に近いというか。プロデューサーや美術監督とも話して、具体的に作りたい表現を聞いて、そのためにはどうするかを落とし込んでいく必要がある。
松永:技術も演出も美術もVFXも対等だから、映画の人からするとやりづらいかもしれないです。例えば監督(テレビでは演出)がOKと言っても、照明のチーフがダメだと言ったらダメな、独特の組織だと思います。逆の場合もありますが。あと、昔は実写合成をCG部がやるのは越権行為だったんです。それは編集部の仕事で、CG部の仕事はあくまでその素材を出すところまで。でも、それだと絶対に『坂の上の雲』の制作がまわらないので、僕たちも合成をしますと言って、Shakeを導入し実写プレートに自分たちが作ったCGを合成することを始めました。今まではカメラフィックスや簡単な動きしかできなかったのが、boujouが出てきてカメラが動いている映像をトラッキングしてピッタリ合ったCGを載せることもできる。そうやって結果を出すと信頼も得られるし経験や実力もついていきました。それで何とか『坂の上の雲』を乗り切りました。当時の日本では海のCG表現や戦争シーンなどをあのクオリティで出せたのは画期的だと思いますし評価もされました。ただ、野口さんが抜けた2部以降は年齢的にもポジション的にも僕のVFXでの責任が重くなったのでとても大変でした。
野口:でも、あれがあったからこそNHKのVFXがどんどん伸びたし、今は大河ドラマで新しいことを次々取り組んでいるように思います。
松永:大河ドラマのシリーズ通しての参加は『八重の桜』が初めてでした。それまではスポットでCGの素材出しやトラッキング、海の合成などでの関わりでしたが、この作品ではVFXのスーパーバイザーを担当しました。『坂の上の雲』の第3部の演出をしていた加藤拓さんが演出チーフで、VFXに求める水準が高かったですね。加藤さんは自分で絵も描くし写真も撮るので、映像のイメージがすでにあって、そこに追いつかなくてはならないんです。1年間やり切ってかなり鍛えられましたね。
野口:その次はどんな作品を担当されたんですか?
松永:NHKスペシャルの『生命大躍進』(2015年)という生き物の起源から恐竜や人類までの生命の道のりを辿る科学番組ですね。僕はどちらかというと、宇宙や恐竜などでのフルCGよりもVFXに興味があるほうだったのですが、『坂の上の雲』や大河ドラマの経験を今回の古代生物の表現にも生かせるんじゃないかと思って、参加をしました。この番組は4Kを進めるためのキラーコンテンツでもありました。アメリカのカメラマンとアメリカの国立公園をめぐり、シネマカメラや当時まだ珍しかったドローンを使ったりして映画的な画面づくりを目指しました。何十体も古代生物をCGで作ったり、本格的にプリビズをしたり、4Kで撮影した実写に迫力あるCGを合成したりと、何百カットも作りましたね。あとは、特殊メイクや特殊造形の方を紹介してもらって、特殊メイクと衣装で原始人を表現したり、哺乳類の巣穴を模型で作ったりと、CG以外のアプローチもいろいろな方の知恵と力を合わせて映像づくりに活かしました。
野口:かつて『ジュラシック・パーク』で衝撃を受けた身としては、自分で恐竜を手掛けてみていかがでしたか?
松永:NHKのCG部署だけでは作れないので、ここでもまた外部の人を探していくなかで、東映アニメーションさんに相談をしたんです。当時の東映アニメには安倍孝文さんとか、中村充彦さん、凄腕の若手が大勢いたんです。その時に電話した鎌田匡晃さんの隣に偶然、田口工亮さんがいて、「恐竜をやってみたいです」と言ってくれたので、チームに入ってもらうことになりました。実は田口さんはそれまで一度も生物のモデリングをしたことがなかったそうです。東映アニメにはもっと上手い人がいたので、彼は戦闘機とか戦艦ばかり作っていたらしいです。でも「フォトリアルなものを作りたい」という探究心がすごくて、恐竜を任せてみたら、これがモノ凄い出来でした。みんな「ホンモノにしか見えない」と。他のモデルを作っていたメンバーも田口さんのモデルを見て「もう1回作り直させてください」と言い出すほどでした。田口さんのモデルでこの作品全体のクオリティがガーンと引き上がりましたね。
野口:『ゴジラ-1.0』で開花する田口さんの恐竜モデリングの第一歩はここからだったんですね!
松永:そういうことになります(笑)。それで、これを活かすには最終的にコンポジットが大事だと思っていたので、コンポジットスーパーバイザーを、しっかりと画を見られる人にしたかったんです。僕はVFXをやっていたけど、コンポジッターじゃないので。そこで『坂の上の雲』の第2部のコンポジットスーパーバイザーをしていた森大樹さんに出向して来てもらったり、ピクチャーエレメントの齋藤精二さんにカラーグレーディングをお願いしたりと、映画の知識や技術を吸収しながら作ったのが、『生命大躍進』でした。このあと、『ダーウィンが来た!』での恐竜特番(2017年)、『荒神』(2018年)でも恐竜や怪獣が暴れまくる画を作ったり、『恐竜超世界』(2019年)、『恐竜超世界2』(2023年)など「恐竜(怪獣)モノ」を次々と担当することになりました。
野口:関わられた「恐竜(怪獣)モノ」の番組は評判になり、VFX -JAPAN最優秀賞や映画テレビ技術協会の映像技術賞など多くの賞も受賞されましたね。
松永:それまでにもNHKでフルCGを多用した恐竜モノのドキュメンタリー番組は数多く作られていました。しかし自分が参加するからには、『坂の上の雲』や大河ドラマなど、ドラマ経験も生かして実写とCGをうまく活かしたVFXを映像表現のメインにしようと考えました。撮影や編集にもこだわったり、実際に生きていると思えるほどのリアルな動きをアニメーションしてもらうために森江康太さんのmorie.incチームやノブタコウイチさんの神央薬品チームに参加してもらったり、モーションキャプチャはスクウェア・エニックスでやったりとか、外のプロダクションやフリーランスの方々とバランスよく一緒に作ることもVFXプロデューサーとしてVFXスーパーバイザーとして学びました。恐竜超世界では脚本家の方に入ってもらってストーリー性を持たせつつ、編集の繋ぎ方でちょっと感情移入させるよう見せたり、ニュージーランドで1ヶ月に及ぶ背景ロケをして雄大な恐竜世界を作ったり、いろいろな繋がりを作りつつ、新しい表現をやってきた結果としてさまざまな賞をいただきました。チーム全員でもらった賞たちです。
コロナ禍をきっかけに加速したバーチャルプロダクション制作と日本VFXの未来
野口:だんだん現在に近づいてきましたが、次は何を?
松永:大河ドラマ『青天を衝け』(2021年)ですね。世界中がパニックになったコロナ禍が始まったり、想定外のことも多かったりして最後まで大変でした。コロナ禍で渋沢栄一が作った帝国ホテルでの打ち上げができなかったのが心残りです(笑)ドラマの経験を恐竜番組に活かしてきたので、今度は恐竜番組の経験も大河ドラマに活かそうと思いました。主人公・渋沢栄一の子供時代に見たイメージとして蚕がダンスをする「蚕ダンス」は放送直後からtwitterでバズりましたし、追鳥狩りでの「雉」や、昨年放送した大河ドラマ『どうする家康』でも多くの生き物が登場したのは恐竜番組の経験も大きかったと思います。
野口:渋沢栄一たちがパリ万博に行くエピソードがありましたけど、コロナ禍でどうやって撮ったんですか?
松永:下見としてパリでロケハン、次に技術下見、最後に本番撮影と3回はパリにいくつもりだったのですが、コロナ禍でパリに非常事態宣言が出て日本から行くことが不可能になりました。『青天を衝け』でのパリVFX担当としてNHKアートの角田春奈さんにも早めに準備をしてもらっていたのですが、日本からは誰も行けなくなったので彼女のフランスの知り合いのCGプロダクションの方にパリでいろいろ動いていただき、パリでのロケハンや撮影も現地のプロダクションに依頼しました。当時は皆さんが利用し始めたオンラインでのミーティングを活用したり、画コンテや撮影プランニングを彼らと共有しました。ネットを使ってコミュニケーションをとりながら渋沢栄一や徳川昭武のナポレオン三世謁見シーンや、セーヌ川のシーンなどは、現地の背景やキャストはパリで撮影し、日本ではそれに合わせてグリーンバックで撮影を行ない、合成をしました。放送後、視聴者の反応で「この時期によく海外ロケに行けたな」とか話題になりましたけど、そういった撮り方で、終わってみれば良い思い出になりました。
野口:このあたりから、ロケにいかなくなる方向に(笑)。いわばバーチャルプロダクション(以下、VP)ですよね
松永:そうなんです。『青天を衝け』のチーフ監督の黒崎博さんが、この前に『太陽の子』という特集ドラマと映画を撮っていて、アメリカでのグレーディング時にアメリカのプロデューサーから、ハリウッドでUnreal EngineでのバイクのVPの話を聞いて、「こういうのがあるらしい」と言うんです。「コロナ禍で大人数でロケに行けないからVPでできないか?」と。日本で『マンダロリアン』(※)が話題になる以前のことです。ただ、そのときはVPのことも仕組みも何もわからなかったので、テクニカル系の井藤良幸さんと話しをして、映像モニターを6個ぐらい繋いで、nDisplayの仕組みでVPを動かしたりとかやってみたんです。後に『どうする家康』の演出統括を担当する加藤拓さんも見に来ていました。今考えるとコロナ禍で『どうする家康』をどうやって作っていくかを模索していたのだろうなと思います。「家康」を描こうとすると、戦国時代のフルコースなので映像的にもメチャメチャ大変です。馬を100頭とかエキストラ1000人とかコロナ禍に集めてロケなんて、あの時期には絶対できないし、グリーンバックで合成するのも事実上不可能です。それでスタジオブロスさんやソニーPCLさんはじめ多くのプロフェッショナルな方々に参加してもらい、R&Dを進めていきました。
(※)『マンダロリアン』
2019年より配信がスタートしたILM制作の『スター・ウォーズ』の外伝ドラマシリーズ。Unreal EngineとLEDパネルを駆使したバーチャルプロダクションでの制作方法が世界中の注目を集めた。シリーズは現在も継続中で、技術的にもさらに進化し続けている。
野口:松永さんは「家康」ではどういう関わり方をされたんですか?
松永:当初は『どうする家康』には参加する予定ではありませんでした。『恐竜超世界2』を担当していたのと、(2023年)6月にNHKを早期退職することにしていたから無理だと思っていました。初めて大規模にやるVPと並行してVFXもやる必要があったのと、若い後輩たちをまとめて大河ドラマ全体のVFX(VP含む)を見るポジションの人間が必要だったこともあり、アドバイザー的な立ち位置で関わりました。大河ドラマのVFXを1年間通してチーフとして経験した人間が当時のCG・VFX部署にはほとんどいなかったのと、すぐ下の後輩たちは僕の20歳くらい年下なのですけど、現場経験が絶対的に足りていないので、僕の経験などをこの機会に伝えておきたいと思いました。
『どうする家康』とは別の話ですが、僕がこれまで蓄えてきたノウハウや知識を、CGやVFXを知らない演出や美術、技術の人たちにも伝える勉強会を局内で全4回開催しました。これは録画して局内のサーバーに残っているので、今後のNHKでの番組制作に活かして欲しいと思っています。そのような人材育成をいろいろ最後にやって、期限を延ばして9月いっぱいで早期退職しました。
野口:辞めた理由は聞いてもいいですか?
松永:はい。最近、自分より年下の身近な人が亡くなったこともあり、自分の残りの人生をいろいろ考えてしまうわけですよ。日本人男性の平均健康寿命は72.6歳だそうですけど、そこから逆算すると元気な時間がもう残り20年を切っているわけです。世界一周だってしたいし、プライベートでやりたいこともたくさんあります。それと、ここまで映像業界のいろいろな繋がりを作ってきましたが、いろいろなところで抱えている問題があることが分かりました。それらを解決しようとしたときに、会社対会社の関係だと利害関係とかで、どうしても難しかったりするんです。それであれば、CG・VFX業界での人脈や経験がある自分はフリーの立場になったほうが動きやすいなと思いました。辞めるときには各社さんに挨拶に周ったり、直接連絡したりして、「今後はフラットな立場でプロジェクト単位で各社の案件に関わったりコンサルの仕事をして業界を元気にしたいと思っています」ということをお伝えしました。
野口:VFX業界をまとめるような活動とか教育活動をフリーの立場で行なってくれることを皆さん期待していると思いますよ。
松永:「呑んべぇJAPAN」みたいな飲み会じゃなくて、ちゃんとビジネスをするやつね(笑)。あと、日本のVFXの業界団体とかをちゃんとしていきたいと思っています。業界を良くしたいし、例えば若い子が言っても変わらないことでも、僕(の年齢の人)が言ったら変わることもあるかもしれないし、自分にできることがあるんじゃないかなって思っているんです。プロジェクトとしてはいろんなことをいろんな人や会社とやるけど、どこかに就職することは今は考えていないですし、自分の会社を作る気もないので、業界にうまく貢献できればと思います。沖縄に移住したので、Caféグループの岸本浩一さんとも「沖縄でユルく何かできるといいですよね」という話もしていて、僕もそれにはちょっと乗り気なんです。沖縄(那覇)は東京や他の地方都市、海外にもアクセスしやすく、また、何でも揃う大きな便利都市でもありながら近くに綺麗な海もあって、仕事するにも生活するにも自分たちにとっては最高です。
野口:せっかく『ゴジラ-1.0』のアカデミー賞受賞で盛り上がっているのに、業界全体がまとまらないと、これだけで終わりそうな感じになってしまうから、次に繋げるためにも若い人を育てていく必要があると思うんですよね。
松永:妻(白組の渋谷紀世子さん)がオスカーを受賞してVFXの世界の頂点に立ちましたが、僕は同じことは出来ないし目指せないし、僕に出来る事をやればいいかなと思っています。たくさんの人や会社を繋げるとか、若い人が頑張れる場を作るとか、ベテランも頑張れる機会を作るとか。例えば、アメリカのアカデミー賞を『ゴジラ-1.0』が受賞したのに、日本アカデミー賞には視覚効果賞すらありません。ただ、フリーランスの僕が言っても、僕を知らない人は「何言ってるんだコイツ……」って感じになってしまう。だからVFXの団体をちゃんとして、VES(Visual Effects Society)の日本支部とかを作って、日本アカデミー賞にVFXやりましょうとか、韓国やカナダみたいに国の補助を出してもらいしょうみたいな政治的なことをやるとか。わかんないですけど、そういうことをできるためにも、コミュニティを作っておく必要があるのではないかと思います。若い人でも目立つ人は目立つけど、目立たない人とかは繋がりが少なかったりとかするし、その若い人からすると世代の壁があったりするので、そのあたりも上手くやりたいなと思うんです。僕のことを上手く利用してほしいんですよね。映画やドラマなどVFXの仕事もしてるけど、それプラス人と人を繋げるとか、悩みを聞くとかコンサルするとかするので。VFX業界のよろず相談的な(笑)。
野口:『ゴジラ-1.0』で日本のVFXが注目を集めている今だからこそ盛り上げないと。
松永:そうなんですよ。山崎貴監督や白組のみんながハリウッドに注目されてすごく嬉しいですし、日本はコスパが良いだけではなく、本当に凄い映像を作れると思います。ですが、『ゴジラ-1.0』も技術的にはまだまだハリウッドとは差があります。『ゴジラ-1.0』は僕たち日本のVFX業界がやってきた少し先を歩いていますが、例えば『アバター』や『ライオンキング』、『猿の惑星』などは今の日本だとまだ作れないと思います。CGやVFXの技術もそうですが、VFXのワークフローの構築や、撮影や照明、編集、演出など各分野で一歩ずつ進めていかないとすぐにはハリウッドに追いつけないと思います。ただ、白組さんだけでなく、日本のプロダクションもそれなりの予算があれば少しずつ追いついていける力はあると思いますし、海外に出ていけるチャンスもあるわけですから、そこを補っていきたいなと思っています。出来ることはやっていきます!
- 松永 孝治
- まつなが こうじ:VFXアーティスト
山口県出身。1970年生まれ。宇部工業高等専門学校卒業後、1990年にNHK入局。鳥取放送局で番組制作エンジニアやカメラマンなどを経験後、東京の放送センターに異動。CG部に配属されたのちCG・VFXを使った作品を数多く手掛ける。主な作品は科学番組『宇宙〜未知への大紀行』、連続テレビ小説『芋たこなんきん』、スペシャルドラマ『坂の上の雲』、大河ドラマ『平清盛』、大河ドラマ『八重の桜』、科学番組『生命大躍進』、単発ドラマ『百合子さんの絵本』、単発ドラマ『荒神』、科学番組『恐竜超世界』、大河ドラマ『青天を衝け』、大河ドラマ『どうする家康』他多数。2023年に独立。VES/Visual Effects Society(アメリカ視覚効果協会)会員。
INTERVIEWER : | 野口光一(東映アニメーション) |
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EDIT : | 日詰明嘉 |
PHOTO : | 弘田充 |
LOCATION : | 東映アニメーション |