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INTERVIEW インタビュー

3DCGの未来
〜CGアニメとメディアリレーション〜

馬渡貴志
【第39回/2021年2月号】
馬渡貴志

日本におけるフルCGアニメーション制作への理解と振興を目指す本連載。「3DCGの未来 ~CGアニメとメディアリレーション~」とリニューアルをし、CGアニメと関係するさまざまなメディアのキーパーソンにお話をうかがっていく。
今回は日本の黎明期のCGプロダクションでありながら、語られることが少ないテクノクエストについて、当時を知る馬渡貴志氏に伺った。後に白組のシステム構築で要職を務めたほか、後進の育成に務め一般社団法人日本映画テレビ技術協会アニメーション部会長としても尽力する馬渡氏に、1980年代から未来に向けた日本のCGの道をロングインタビューで聞いた。

【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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タイトーが設立した、もうひとつの黎明期のCGプロダクション

東映アニメーション/野口光一(以下、野口):以前、この連載で福本隆司さんに(第37回)、トーヨーリンクスが起業された頃(※)の日本のCGの黎明期のお話を伺いました。他にCG専業のプロダクションとしてはJCGL(※)、SEDIC(※)もありましたが、この界隈を調べていくなかで、当時存在したテクノクエストというCG会社の存在に行き当たりました。ただ、この会社の情報が極めて少ないため、当時を知る馬渡さんに教えていただきたいと思います。

(※)トーヨーリンクス
1982年6月1日設立。詳細は福本氏の記事を参照。2010年IMAGICAと事業統合。

(※)JCGL
1981年9月19日設立。日本で最初の商業CGスタジオ。詳細は福本氏の記事の記事を参照。1988年3月解散。

(※)SEDIC
1983年10月5日設立。SPN(西武プロモーションネットワーク)設立後、セディックと改名。1986年、広告代理店I&S(現I&S BBDO)の一部門となる。

馬渡貴志

馬渡貴志(以下、馬渡):僕もネット上を調べてみたのですが確かに見当たりませんね。著名な先生がアドバイザーになって、スタッフを集めたといった始まり方ではなかったので、存在感が薄いのかもしれませんね。テクノクエストは、当時タイトーの社長のミハエル・コーガンさんが1984年に設立した、タイトー100%出資の子会社です。社長になったのは後にオムニバス・ジャパンの設立に関わった相川潔さんです。当時はすでにカナダオムニバスなどが設立されてCGでCM映像を作っていたので「日本でもこれからはCGをやっていこう」とコーガンさんが考えて設立されました。

野口:会社としてはどのような業務を行なっていましたか?

馬渡:当時のCGはそもそもプログラミングしないと使えませんでしたから、CGソフトの開発と、3DCG、映像制作ですね。それと親会社がゲーム会社ですから、ゲームの開発や新規コンテンツの開発などを行なっていました。一部で有名な『元祖西遊記スーパーモンキー大冒険』もテクノクエストのゲーム開発チームが作った作品です。3DCGでテレビ番組のオープニングやCMの制作を行なったり、この他にもオリジナル企画として、ハレー彗星を取り扱った『200億年』というビデオソフトも制作・販売していました。

野口:当時、使っていたのはどんな機材でしたか?

馬渡:長く使っていたのが、DEC(※) の「VAX 11/785」ですね。

野口:当時はソフトがありませんよね?

馬渡:はい。「VAX 11」にした理由の一つは、Anticsというパッケージソフトがあって、それで簡単なCGを作ることができたからです。それで映像を出しながら、3Dはモデラー、シェーダー、アニメーション、レンラダーといったものをプログラミングしていました。1986年の終わり頃になると「VAX 11」ではさすがにパワーが足らないということで、同じDECの「MicroVAX」や、UNIX System V が走る「Ridge32」というワークステーションを使用していました。「VAX11」「MicroVAX」のOSは、VMSというOSでした。

(※)DEC
ディジタル・イクイップメント・コーポレーション。かつて存在したアメリカのコンピュータ企業。1960年代から70年代にかけてミニコンピュータの市場で大きな成功を収めるが、パーソナルコンピュータの登場により衰退。1998年にコンパックに売却された。後に同社はヒューレット・パッカード社に吸収合併された。

野口:スタッフはどのような方がいましたか? 親会社がゲーム会社ですから、そこから参加された方もいたのでしょうか?

馬渡:ゲーム関係はタイトーから入ってきたメンバーが最終的に6名くらいだったと思います。あとはCGクリエイターが6名。技術部が僕を含めて4名。それと管理部が3名ですね。

野口:当時は人材募集も大変だったでしょうね。

馬渡貴志

馬渡:募集に関してはCGアニメーションのアドバイザーとして、月岡貞夫さんが来てくださっていて、僕を含めそのツテで3名ほど入りました。あとは日本電子専門学校とか東京デザイナー学院といった専門学校に新入社員募集をかけて集めていました。

野口:馬渡さんはその前はどんなお仕事をされていたんですか?

馬渡:僕は緒方プロダクションという撮影会社で、アニメの撮影の仕事をしていました。そこでは様々な制作会社の撮影を請け負っていて、最初の劇場版『機動戦士ガンダム』3部作や、東映動画の『金の鳥』も撮りましたね。緒方プロの特長は当時、モーションコントロールカメラ(※)を持っていたことです。それを月岡さんが聞きつけて、多重合成が上手く行かずに困っていたCMアニメーションの撮影を発注してくれて、その際に僕が担当したことで、月岡さんに覚えていただけたのでした。その後、緒方プロは同じビルに入っていたテナントから出火して、その被害に遭ったことをきっかけに、社長は撮影部門を閉じてしまったんです。そこで別の制作会社が撮影部を立ち上げることになって、ほとんどのスタッフと機材はそこに引き取られていったのですが、そのタイミングで僕は退職をしました。

(※)モーションコントロールカメラ
コンピュータ制御によってフレーム単位で正確な動きをさせるカメラ。全く同じ軌道で撮影ができるため、実写特撮作品でマスクの切り出しに効果を発揮した。『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』での使用例が有名。

野口:すでにアニメよりもCGに興味が向いていた?

馬渡:そうですね。当時、『トロン』や、ジョン・ホイットニーJr.のCGを観ていて、「CGって面白そうだな」と思っていたところ、月岡さんからお声がけをいただいて、テクノクエストを紹介していただいたというわけです。ただ、当時はCGで映像制作をした後、フィルムに出力するケースも結構あり、他のスタッフはコマ撮りのフィルムレコーディングの経験がなかったので、撮影の経験を買われた部分もあったと思います。僕が入るまではミステイクも多かったらしく、まずはその辺りを中心に見てほしいと言われました。

野口:前職の経験がそのまま役立ったわけですね。

馬渡:あと、これはCGとは関係ないのですが、月岡さんが企画と監督をした『こんなこいるかな』(※)というNHK教育のショートアニメの第1期シリーズを1986年の前半にテクノクエストで制作していました。月岡さんが連れてきたアニメーターの人が中心になって絵を作る体制は整ったのですが、ラインプロデューサーがいなかったので、僕がそれを担当していました。

(※)『こんなこいるかな』
NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』のコーナーで放送されたショートアニメ。1986年4月〜1991年3月まで放送。絵本やビデオソフトが後に大ベストセラーを記録した。

馬渡貴志

野口:テクノクエストは将来的にアニメ制作事業を始めようとしていた?

馬渡:おそらくそうではなかったと思います。月岡さんがCGアニメーションアドバイザーを務めていたということで、請け負ったのだろうと思います。そのあたり、自由といえば自由な会社でしたね。

野口:CGのソフトを開発する一方で、CMや企業ロゴの制作も請け負うし、発注されたら何でもやる会社だったんですね。

馬渡:そうですね、ゲームのチームはプラットフォームがファミコンですから、あまりこちらのCGの方にマシンを貸せとかいうこともなかったので、そのあたりの棲み分けはできていたと思います。

野口:当時のテクノクエストにいた方で、今でもCG業界にいる方はどなたでしょう?

馬渡:現在、ダイナモピクチャーズの開発部部長の渡部晃久さんが、僕の隣の席にいました。彼は技術部長でメインのプログラマーでした。あとはデジタルガーデンのチーフテクニカルマネージャーの村松武さん。彼はテクノクエストに最後に入ってきた新人だったと思います。

野口:テクノクエストはどのくらい存続していたのでしょう?

馬渡:1984年からスタートして、解散したのは1987年3月です。会社としては赤字で、タイトーから補助を受けているという状態でした。そんななか、ミハエル・コーガンさんが急逝してしまい、初代社長の相川さんも退任し、その後タイトーから新たにテクノ クエストに新しい社長と総務が送り込まれて経営をしていたのですが、赤字体質から脱却できず、タイトーは内部に吸収することに決め、テクノ クエスト自体は解散することになりました。タイトーとしては、スタッフは希望すれば全員引き取ると言っていたのですが、ほとんどの人はそのときに辞めてしまいました。

野口:初代社長の相川さんはどうされたんですか?

馬渡:相川さんはカナダオムニバスからライセンスを獲得し、東北新社からの出資を取り付け、オムニバス・ジャパンを設立しました。ポストプロダクション業務とCG業務の2本柱にして、渡部さんと岡島岳洋さんは共にオムニバス・ジャパンに行きました。後の人は散り散りになってしまいました。僕はそれまでアニメやCGで散々徹夜もしたし苦労もしたので、もっと気楽な仕事に就こうと思ったのですが、月岡さんがまた満面の笑顔でやってきて、「白組という会社が、新しくシステムを入れて1からCGチーム作ってくれる人を探してるんだけど、馬渡くんやらないか?」と、おっしゃって頂いて……。

野口:(笑)。それでまたも月岡さんが転職先を紹介してくれて、馬渡さんは白組に行くわけですね。

馬渡:そういうことです。ちょうどその頃、白組ではそれまでのCGチームが独立してしまったんです。僕も撮影会社の頃に白組が作った『シュンマオ物語 タオタオ』(※)という作品を撮っていたので、「分かりました」と言って、白組の島村社長(達雄/現会長)と面談したら、それまでのポートフォリオも見ずに「で、いつから来られる?」と(笑)。

(※)『シュンマオ物語 タオタオ』
1981年公開の山田洋次原案による初の日中合作長編アニメ。山田は監修を務めた。監督は白組社長の島村達雄。

白組のCGシステムをきっかけにデビューを果たした山崎貴監督

野口:馬渡さんの他にもテクニクスクエストから移られた方はいましたか?

馬渡:村松さんと、今は日本電子専門学校の先生をされている松浦治さんです。1987年の7月のことでした。JCGLの解散が1988年3月ですから、タイミングがズレていたらJCGLの人達が白組に入っていたかもしれません。

野口:そこで馬渡さんは白組でシステムを作るところから始められたわけですね。

馬渡:いえ、僕が白組に入る前に大枠は決まっていたんです。それでソニーのUNIXワークステーション「NEWS」を導入して、ソフトはPersonal LINKS(※)をフルパッケージで購入しました。最初は1台だったのですが、最終的に「NEWS」もPersonal LINKSも4セットまで増設しました。

馬渡貴志

(※)Personal LINKS
トーヨーリンクスが開発した3DCGパッケージソフト。それぞれのソフトでモデリング、アニメーション、レンダリング、メタボール作成などができる。

野口:その後、Personal LINKSからRenderMan(※)に移行されました。その経緯を教えて下さい。

(※)RenderMan
ピクサーが1993年に発表したレンダリングソフト。現在も更新が続き、ピクサー作品はもとよりハリウッドの実写VFXでも非常に多くの作品で使用されている。

馬渡:今だから言えることですが、Personal LINKSのレンダラーは、レイトレーシングは良いのですが、スキャンラインにバグがありました。これは何とかしたいねと思っていた1990年頃、Personal LINKSのレンダラーがシリコングラフィックスのPersonal IRISで走るように移植されたので、Personal IRIS 4D20Gを導入しました。もうレンダリング待ちの時間も厳しかったのでね。それで、Personal IRISが4台ぐらいになったときかな。さすがに何か違うソフトを入れたいよねという話になって、いろいろ調べた結果、「TDI Explorer」(※)を導入しました。それが1991年頃のことです。

(※)TDI Explorer
トムソンデジタルイメージ(仏)が1990年に開発した3DCG制作ソフトウエア。

野口:すべてTDI Explorerに?

馬渡:しばらくはLINKSと両方走ってました。LINKSのレイトレーシングとメタボールで作りたいという演出側の希望もあったので。そうしたら1993年に、TDIがWavefront(※)に吸収されて、こちらとしては欲しかったWavefrontのDynamationやKinemationまで手に入って嬉しかったですね(笑)。そうこうしてるうちに『ジュラシックパーク』が公開になりました。あのディスプレイスメントマッピングができるのであれば、やっぱりRenderManだよねという話になりました。ただ、僕は白組でCGチーム作るにあたって社長に厳命されたことがあるんですよ。

(※)Wavefront
1984年にアメリカ・カリフォルニアに設立された企業。パーティクルを作成するDynamationやアニメーションソフトKinemationなどのソフトウェアを製作。『クリムゾン・タイド』(1995年)などの制作に使用された。シリコングラフィックスに買収された後、1995年にAliasと合併し、Alias|Wavefrontを設立した。

野口:何でしょう?

馬渡:「絶対開発はするな」と。CGチームとしての開発は禁止でした。つまり、それまでの主流はプログラム開発をしてCGの画面を出すというやり方で、これは開発者からしたら当然だったのですが、映像制作側にしてみれば、何かを頼むたびに2週間も待たされるというのではCM制作のスケジュールに合わない。特に白組はもともとアニメーションや特撮の会社だったので、「だったら手で描いちゃえ」という文化でしたから。しかしRenderMan導入にあたってはシェーダーを開発しなくてはならない。でも開発は禁じられている。

野口:困りましたね。このままでは導入できない。

馬渡貴志

馬渡:そうしたら、RenderManにAlias(※)のPowerAnimator用のATORプラグインが出て、またAliasとWavefrontが合併するというニュースも持ち上がった。これでRenderManを扱えるチャンスがありそうだということになりました。

(※)Alias Research
1983年に設立。1995年にWavefront Technologiesと合併。2003年にAlias Systems Corporationと改称。2006年にオートデスクの傘下に入った。

野口:まとめると、TDIを導入したら、1993年にTDIがWavefrontに吸収されて、1995年にWavefrontはAliasと合併をした。それでAliasのPowerAnimator用のプラグインでRenderManを使えるようになったというわけですね。

馬渡:その通りです。じゃあAliasの導入だと、レンダリングオプションパッケージとしてAliasと一緒に見積もりしてもらって、こっそりATORとRenderManを導入したんです。話は前後しますが、スタッフで強力にSoftimage(※)を推してた人がいてその前にSoftimageを買っていました。なので、白組のソフトウェアとしては最初はPersonal LINKS、次にTDI Explorer、その後、Softimageを入れて、AliasとATORとRenderManですね。

(※)Softimage
1986年にカナダで設立された企業によって開発された3DCG制作ソフトウェア。映像業界で多く使われたが2014年に開発終了した。

野口:そういう段取りを踏んでの導入だったんですね。僕らからすると山崎貴(※)さんの『ジュブナイル』でRenderManを使っていたのを知って、羨ましいなと思いながら見ていましたよ(笑)。

(※)山崎貴
映画監督。1986年に白組入社。2000年公開の『ジュブナイル』で監督デビュー。2005年『ALWAYS 三丁目の夕日』で日本アカデミー賞を受賞。以後、『STAND BY ME ドラえもん』、『アルキメデスの大戦』、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』などを監督。

馬渡:それまで仕込みの期間が1年くらいありましたね。しかも、こっそり入れてるもんだから、誰も知らないんですよ。これはもう時効か(笑)。で、AliasでCMを作ればRenderManのコストもAliasのランニングコストに吸収されるというわけです。

野口:『ジュブナイル』は映画だから、もうRenderManで行くと決めていたんですか?

馬渡:そうですね。今はデジタル・ドメインにいる松原正一くんがRenderManのシェーダーを書いて、「ディスプレイスメントマッピングできたよ」と僕に声をかけてきて、「これ、ジュラシックパーク出るよね?」、「モデルがあったら出るんじゃない」みたいな話をしていたんです。それを山崎さんに見せたところ、「この画像、どこで拾ってきたの?」「今、うちで作った」「うそだあ」って、全然信用しないんですよ(笑)。じゃあ拾ってきた画像では出来ないことをやろうと、ディスプレイスメントマッピングの表面の色や質感をその場で変えたり、ちょうどCMで作っているオブジェクトのデータを持ってきて、それにディスプレイスメントマッピングをしたりしたら、ようやく信じてくれました。それで彼が「社長に見せてプレゼンしたいから短いCGアニメーションを作ってくれないか」と言ってきて、松原くんが作って山崎さんが島村社長(当時・現会長)とチーフディレクターの小川さん(洋一/現社長)にプレゼンしたら、「好きなものを15分ぐらいの尺で作りなさい」という指令が下りました。

野口:それは長い尺ですね。

馬渡:当時としては長いですね。メインはRenderManで他にもSoftimageやTDIを使って、パイロットフィルムができました。それを社長や小川さんたちがいろんな会社にプレゼンして、製作委員会ができて、『ジュブナイル』という作品が世に出たというわけです。パイロットフィルムの一部は『ジュブナイル』でゲーム画面の一部として使われています。怪獣みたいなのが駆け回ったり、恐ろしい顔した宇宙船が画面に向かってきたりする場面などです。

馬渡貴志

野口:そのときはAliasを使っていた?

馬渡:ATORを使っていた人がMayaに移行したときにライセンススイッチしてくれるMaya to RenderMan(MTOR)というプラグインをピクサーが出していましたので、先のパイロットフィルムの少し前からMayaを使っていました。実はMayaはα版から「試してみませんか?」という話を頂いたのですが、さすがにCMを制作するスケジュール感では心配でしたので、β版やver1までは試しつつ様子見でした。実際にCMに投入したのはver1.5からでしたね。

野口:福本隆司さんのインタビューでは、CGを作るにはプロデューサー・ディレクター・テクニカルディレクター(TD)の三角錐が重要だとお話されていました。これまでのお話だと、その頃の白組は小川プロデューサー、山崎監督や本社のディレクターたち、松原テクニカルディレクターという三角錐が成立していたように思えます。ただ、開発をしないと厳命されていたことはTDに当てはまるのかどうか留保は必要かもしれませんが。

馬渡:そこは撮影部が映像に対してのTDの役割を果たしていたのかなと思います。撮影部長もそうですし、僕にもCGチームとしてのその役割があったと思います。

野口:外部から見るとCGはRenderMan、実写ではモーションコントロールを使っていて、そういう派手で新しいことをやっている会社の中から山崎監督という新鋭が出てきて、白組という会社はプロダクションとして頭一つ抜けた印象がありました。

馬渡:そうですね。彼はVFXが非常に好きで、時間さえあればCGチームに入りびたってPersonalLINKSのペインターPICTORISを使っていたり、CGを作ってるところを横でずっとギャラリーしてたりとかですね。あと、当時は博展映像が多く、フィルムで撮影をするとオプチカル合成になるので、山崎さんが担当してラボに行って遣り取りをしていた覚えがあります。そういった経験を通じて彼はCGやVFXに明るくなっていったのではないかと思います。

野口:RenderManを見つけたらパイロットフィルムを作ってプレゼンしようとする行動力もあり、そこから監督になっていくわけですから。

馬渡:そのあたり、勘の良さもやはりさすがだなと思います。ディスプレイスメントマッピングを見せたときの反応もなかなかのものでした。フィルモグラフィーを見ると、『ジュブナイル』、『リターナー』、そして3本目が『ALWAYS 三丁目の夕日』ですから。ヒットして良かったです。

イマジネーションがなければ良い作品は作れない

野口:馬渡さんは2002年に白組を辞められてからは教育方面に向かわれます。

馬渡:白組にいたときは、CGのクリエイティブ、システム管理と映像デバイスの管理をずっとやっていたので、もう少し別のことをやりたいと思って自分の会社を立ち上げました。その立ち上げ1年目の頃に「専門学校で先生を探してるけどアルバイトしない?」と言われて、創立2年目から東京映画・俳優&放送芸術専門学校で教えています。

野口:昔はCGといえばVFXが主流だったと思うのですが、今の学生さんにとってCGといえばアニメとゲームに興味がシフトしているような気がします。教えている側としてはどのように感じていますか?

馬渡貴志

馬渡:それはありますね。海外も含めVFXというものを見慣れてしまったのかもしれないですね。これは聞いた話なのですが、映画を見ていたとある中学生が「なんだCGか」と呟いたそうなんです。それはひとつにはCGが陳腐化したということ。もうひとつはそのシーンをVFXで本気で見せようとするのではなく、実写が無理だからCGでという消極的な選択をするクリエイターが増えたからではないかと思うんです。そのあたり、CGにきちんと手間とお金をかけて見せたいものを作ろうとする監督は誰かといえば、やっぱり山崎監督になるのかなと思います。

野口:山崎監督作品は、VFX-JAPANアワードで何作品も受賞されていますし。昔は日本とアメリカとフランスでそれぞれの持ち味というものがあったと思うのですが、現状では差が開いてしまっている。それは技術の差というよりもイマジネーションの差ではないかと思います。

馬渡:以前は技術の差、あるいは予算やスケジュールと言われていましたが、それらが揃っていたとしても結局はイマジネーションがないと、やっぱりお客さんに「なんだCGか」と言われてしまうんですよ。

野口:CGに対してワクワクしている感じがないのかな?何か新しいことをやろうとして海外に行こうとするような人は少くなっているのではないかと思います。

馬渡:専門学校生はCG/VFX業界に就職する意識はありますが、大学でCGを学んでエンターテインメント業界に行く人は少なくなってると思います。メーカーとかシステム系、Web系に行ってしまう。あと、どうしてもシステム設計とかプログラミングを苦手とする人が多いですね。特にCGは基礎理論がある程度分かっていないと、CGソフトのメニューが何を表しているのかも分からなくなってしまう。やっぱり最初にそこを乗り越えないと好きなものは作れないわけですから。

野口:一方で、できる学生はものすごくできる。その差も広がっているのかなと思います。

馬渡:その差は本当に大きいです。できる学生はやはり情熱を持っています。必ずしも子供の頃からCG一辺倒というわけではなくて、大学に入ってからCGの面白さに気づく学生の方がむしろ多いですね。そこに全力を注ぐタイプの人は卒業後にCGプロダクションに入ることが多いですね。これはこの10年くらいの傾向かな。

野口:全体的な傾向では教育も良くなっていると思います。専門学校、大学、大学院と学ぶ場が増えたり広がったりしているし、今までであれば考えられないような飛びぬけた子も出てくるようになった。それも、デジタルネイディブと呼ばれる世代が、使い方を覚えて今までの僕たちの世代では思いもつかなかったようなことを考え出すようになった。すると、この世代からいずれ山崎監督のような存在が出てくるかもしれません。

馬渡:そうですね。山崎監督も白組に入社した頃からずっと自分で映画を作りたいと言っていましたし、CG/VFXに最初から高い興味を持っていました。彼も初監督作品からもう20年選手で50代ですから、そろそろ新しいものを引っさげた人が出てきてもおかしくないタイミングかなと思います。

野口:また、馬渡さんは1983年から一般社団法人日本映画テレビ技術協会にて、VFX、アニメーション部会を取りまとめておられ、また協会主催の映像技術賞にも関わっておられます。賞レースはどうしても人気作、ヒット作であるかどうかが判断材料になりがちですが、この賞は純粋に技術を見てくれている。作品の技術プレゼンテーションをする必要があるので、ハードルはありますが、そのあたりをきちんと技術を判断する賞になっているのが貴重だなと思いました。

馬渡貴志

馬渡:映像技術賞の一番のポイントは、作品が面白いとかヒットしたというところではなく、どんな技術を使って映像を作ったか、そしてそれが作品全体にどのように貢献しているかに注目して評価するところだと思います。

野口:馬渡さんが今、注目している技術は何ですか?

馬渡:ディープコンポジティングですね。2019年度映像技術賞・VFX部門受賞作のNHKの『恐竜超世界』(※)で、この技術を使っています。たぶん、日本の商業映像で使ったのはこの番組が初めてじゃないかなと思います。

(※)『恐竜超世界』
2019年にNHKで放送されたスペシャル番組。全2回。最新の知見に基づいた恐竜の世界をCGを駆使して描いた。この映像を使った関連映画『恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た!』が、2020年に公開された。

野口:どういった技術なんでしょうか?

馬渡:これを使うと違うレンダラーでレンダリングしたものをコンポジットしたときのズレがなくなるんです。レンダラーが異なるとどうしても何ピクセルかズレが出るんですよね。それをピッタリに合わせるという技術です。

野口:ArnoldにするかRedshiftにするか、今はレンダラーがみんなバラバラですよね。

馬渡:そうですね。それで別々に作ってレンダリングしてコンポジットすると3ピクセル合わないというようなことを解消する技術です。あとはAR技術ですね。この番組を作るときの難しいところは、実写部分を撮影する時に恐竜の大きさ感が分からないことだったそうです。そこで、ARアプリを入れて恐竜のデータを入力してスマホのカメラを向けると、撮影現場での実写に合わせたスマホ画面に恐竜が乗るという仕組みです。これによって、撮影は非常にスムーズであったとプレゼンをされていました。

野口:確かにARはこれから撮影現場で重宝するでしょうね。せっかく新しい技術が簡単に手に入るようになったのですから、上手く採り入れて実際の制作に投入していってほしいですね。

馬渡:CG/VFXを使ってさえあれば「凄い」と評価される時代はもう終わっても良いと思います。最先端みたいに言われますが、'90年代から数えたら、もう30年ですから。これからは企画、演出、画面作りのなかで作り込んで、映像コンテンツの総体としてどのように見せるか。まだまだ伸びしろがあるVRやARについてもCGの轍を踏まないように考えていく必要があると思います。

馬渡貴志取材

馬渡貴志
一般社団法人日本映画テレビ技術協会会員、研究部会アニメーション部会長
1959年生まれ。1981年よりアニメーション、CM、特殊効果映像などのフィルム撮影に携わる。1985年、CG業界に移籍、CMや博展映像、映画などのCG制作、CG技術に携わり、2003年、会社を設立し独立。映像ディレクター、映像技術、VFX技術、メディア技術などに携わり、現在に至る。有限会社東京パフォーミングデジタル代表取締役。尚美学園大学芸術情報学部講師、東京映画・俳優&放送芸術専門学校講師。
Supported by Enhanced Endorphin
INTERVIEWER : 野口光一(東映アニメーション)
EDIT : 日詰明嘉
PHOTO : 弘田充
LOCATION : 東映アニメーション

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