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INTERVIEW インタビュー
デジタルコンテンツの未来
〜温故知新〜
CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はCGの歴史を知るキーパーソンにまたも登場していただいた。1981年に設立された日本初のCGプロダクション・JCGLの設立当初から勤められた今間俊博氏だ。初のフルデジタルアニメ『子鹿物語』の第2話の制作現場を含めた当時のJCGLのようすや、後年に映像教育で教鞭を執った経験をもとに、現代の子供に向けて必要な映像リテラシーについての提言もいただいた。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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日本初のCGプロダクション JCGL設立
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):今間さんは日本で最初のCG専門スタジオであるJCGL(Japan Computer Graphics Lab.)の設立当初から解散まで参加されていたとのことで、その歩みを教えていただければと思います。
今間 俊博(以下、今間): JCGL設立の前段として、金子満さん(※)が、自身のアニメ企画会社エムケイと制作プロダクションのビジュアル80を設立したことから始まります。そこで彼は、プロデュースをしたりシナリオを書く作業などを通じてアニメ制作に取り組んでいました。当時のセルアニメーションは、労働集約型の仕事で、ともかく人手と時間を多く必要としていました。制作時間がとても多い為、作品が出来上がった後に、演出的な不具合が見つかったとしても、作り直すことは難しかったのです。クオリティの高いアニメーションを制作するためには、制作時間の短縮が課題の1つでした。そこで、アニメ制作を効率化し、作品品質の向上を目指すために、当時、生まれたばかりのCGに着目しました。当初、彼は、コンピュータについては素人だったので、静止画を用意すれば、パラパラと動画が生成できると思っていたそうです。それで、コンピュータによる動画像制作などの研究を行っていた東工大の安居院・中嶋研究室に相談しました。そこで先生から、当時のSIGGRAPHなどで研究発表された、ニューヨーク工科大学(以下、NYIT)による、線画による中割りシステムやペイントや仕上げといったシステムが存在する事を紹介されました。彼は、NYITの研究所を訪問し、実際にセルアニメーション作っている所を見学しました。その後日本に、このNYITのシステムを導入し、TVアニメ『子鹿物語』などを制作する事につながります。
(※)金子満
1939年〜2018年。映像コンテンツプロデューサー。脚本家。フジテレビの制作部、映画部を経て、アメリカMGMスタジオで映画製作、ABCヴィデオセンターでCM制作に携わり、南カリフォルニア大学シネマスクールで学ぶ。帰国後フジテレビを経て、東京でアニメ企画・制作会社エムケイ、CGスタジオJCGL(Japan Computer Graphics Lab.)、ロサンゼルスでメトロライトスタジオを創設。『子鹿物語』、『SF新世紀レンズマン』をプロデュースする。東京工科大学大学院教授、東京工科大学片柳研究所教授。映像産業振興機構(VIPO)理事、CG-ARTS理事。「日本のCGの父」と呼ばれる。
野口:今間さんが入社したのはどのタイミングですか?
今間:僕が入ったのは1982年の1月です。JCGLは前年の9月に設立されたばかりで、まだ日本にはシステムが到着する前の段階でした。
野口:どんなきっかけで入社されたんですか?
今間:子供の頃から秋葉原に通っていた電気大好き少年でした。大学生になってから、モトローラの6800というチップを使ったコンピュータをハンダ付けして作りました。大学3年の時に、NHKの教育番組「みんなの科学」の番組制作の元ネタを考える、実験グループに入れていただきました。その活動の中で、当時のApple IIを使ってコンピュータグラフィックスの真似事みたいなことをやっていた事もあります。番組のディレクターである田中さんが金子さんと親しく、コンピュータに詳しい人を探していた金子さんに、田中さんから紹介されたというのが出会ったきっかけです。その当時の私は、大学卒業後に入社した特許のデータベースの会社で、COBOLを使って特許データの電子化などをしていました。仕事が自分の性格に合わなかったので3年弱で辞めて、JCGLの立ち上げのタイミングで入社したというわけです。
野口:JCGLに入って最初はどんなことをされていたんですか?
今間:JCGLは会社の登記は終わって設立はされていましたが、JCGLの仕事はまだ何も無かったのです。だから正確に言うと、最初はエムケイに入りました。JCGLでは、5月にDEC社のミニコンのVAX-11を入れる予定だから、ともかく向こうに行ってCGの勉強してこいと言われました。そこで2月に、アニメーターの人と3人でニューヨークに行きまして、毎日NYITの授業を受けていました。授業といっても教室で行われるわけではなくて、プログラムを組んだ人たちが自分のプログラムについてレクチャーしてくれる形です。僕はその当時、まだアニメーションもCGについても何も知りませんでした。コンピュータの基礎知識はありましたが、UNIXやC言語なんか全然知らない状態でした。そのため、毎日の英語による授業が終わると食事もせずに寝てしまうほど猛勉強の日々でした。
帰国後、VAX-11は5月頃にJCGLにやってきました。DECによる設置の終了後、NYITの人達が、NYITのシステムをインストールして行きました。その後、アプリケーションのインストラクターの人達が来日し、JCGLのアニメのオペレーターになる社員達に、システムの教育を行いました。
野口:当時、何人ぐらいのオペレーターがいたんですか?
今間:最初は2次元のアニメーションをやる予定でしたから、紙での作業をやってる人も含めて、最初の年が15人ぐらいかな。マシンはVAX-11-780が2台と、PDP-11/44が2台、PDP-11/23が6台ありました。
野口:オペレーターはどんな方でしたか?
今間:金子さんは最初、アニメ制作の重要な部分は全て、コンピュータがやってくれると考えていたので、コンピュータのスキルを持っていた人はほとんどいなかったと記憶しています。美大出身の子もいたかな。女性の方が多かったですね。
野口:JCGLは学生サークル的な華やかな雰囲気だったとJCGLのOBの 平 正昭さんがおっしゃっていました。
今間:平さんが入ったのはもう少し後で、CM制作も始まった頃だったからそう感じられたのかもしれませんが、アニメ制作オンリーの当時はどんよりとしていましたよ(笑)。象徴的なのが、中島みゆきの『悪女』という曲。夜中にみんなで作業しているなか、BGMとしてエンドレスで一晩中かかっていて、いつ終わるとも知れない気分が続いているようすで暗かったなぁ。手描きアニメであれば他所の会社に助けてもらうこともできましたが、CGですから頼れるところもなくて。
『子鹿物語』第2話フルデジタル制作の真実
野口:『子鹿物語』(1983年)の第2話はフルデジタルで作られたそうですが、そのNYITのシステムで作られていたんですか?
今間:そうです。僕が一番びっくりしたのは、自動中割システムではペンシルテストが画面上でできること。当時は紙パラでやっていたから(原画の紙をめくってチェック。指パラ)、僕みたいなアニメ業界以外の人間がパッと見ても動きがわからないんですよね。でも、この画面では見られるわけです。
野口:実際のところ、その中割システムは早かったんですか?
今間:中割り計算は10分〜20分かかりましたが、その後の表示はリアルタイムでした。なぜリアルタイムにできるかというと、ディスプレイの後ろに表示用のメモリがあって、その表示メモリで動画を見せていたからです。フレームバッファ的なディスプレイですね。最初はその自動中割システムを使って作っていましたが、橋のシーンだけで3ヶ月位かかりました。金子さんとしては、人間が手でやったのではできないぐらい滑らかに動くシーンをふんだんに盛り込みたかったので、カメラがゆっくりクレーンアップしていくカットといった、手で描くと嫌がられるようなシーンがたくさんありました。ですが、やはり表現上うまく行かなかったので、結局は人間がちょっとずつ直していくことになり、全部で制作には半年かかりました。予算も通常の6〜7倍はかかっていたと思います。
野口:その制作の結果として作画アニメとコンピュータによる生産性の相性の悪さを感じたからJCGLはその後、3DのCGにシフトしていったんですか?
今間:それもありますが、それだけではないと思います。当時のアニメの制作費の相場は確か1話あたり500万円ほどで、それでは絶対に、当時のコンピューター的にはペイしないことが分かったんです。そこでCM映像の受注として、当時はまだ斬新だった3DCGにシフトしていきました。そうしたときに、NYITのシステムは、3DCGがそれほど得意では無かったせいもあって、1985年にはオハイオ州立大学が作っていたプログラムに乗り換えました(後のJCGLシステム2)。
野口:それはどうやって見つけたんですか?
今間:米国のCG学会「SIGGRAPH」です。オハイオ州立大学は公立大学で、自分達の研究したものを商用利用するために設立したCranston/Csuri Productions(C/CP)という会社があり、そこがSIGGRAPHに出展していました。NYITよりもずっとフレンドリーで、「使ってみて良かったら買ってね」とか、「別に売りものなわけではないしもっと良くなるから、君たちもどんどんソフトを書けばいい」みたいなスタンスでした。僕らがJCGLを始めたときはまだ市販のCGソフトというものがなくて、JCGLが終わる頃にやっとロバートエイブル(RA&A)のソフトが売り出されたぐらいじゃないかな。JCGLとしてはこのシステムで、ラスターグラフィックによるフルCGのCM「中部電力」(1983)などを制作しました。
野口:JCGLはそこでモデラーやレンダラーを自作していたんですか?
今間:結局、ちゃんとしたモデラーは、JCGLでは作らなかったと思います。3次元デジタイザーも使っていましたし、3DCGでは形がメタモルフォーゼするわけではないので、動きを見るのだけであればエバンス・アンド・サザランド(E&S)のPS300で十分だったんです。
野口:後にPC98向けのソフトを市販するようになりましたが、そこまでダウンサイズができたんですね。
今間:まさにその旗振りをしたのが僕でした。当時はまだPCでは8色か16色しか出なかったので、NECの白田さんという方にフレームバッファをどうにかできないかと相談を持ちかけたところ、ビデオトロンという会社を紹介してくれました。そこで100万円を切るぐらいの値段で放送品質の映像信号が出力出来る1600万色のフレームバッファを作ってもらったんです。白黒モードだと、10数レイヤーあるから一応動画も見れるわけです。最初は静止画レンダリングで、高い機械でコマ撮りをさせてみたいなことで最初は売り始めたんだけど、最後の頃はメモリーがだんだん安くなってきて、メモリーの中で動画生成ができるようになりました。
野口:渋谷のオフィスから池袋に引っ越しをしたのはいつでしたか?
今間:1985年です。そのときに資本構成が大きく変わりました。株主の講談社に増資を引き受けてもらいました。もう作画アニメ制作は無理で、3DCG専業に移行したときに筐体の大きなVAXは2台もいらないから、小さい社屋でも問題ないということで池袋に引っ越しをしました。JCGLは創業から5年間は赤字が多かったのですが、渋谷の社屋が自社ビルだったので穴埋めが出来ました。当時はバブル真っ最中でしたからね。
野口:そこから池袋の時代が始まるわけですが、3年間で閉じることになったのは?
今間:講談社が引き受けてくれたのは当時講談社の社長だった野間惟道さんの一声のおかげだったそうです。その彼が1987年の6月に急逝してしまい、その年の12月に取締役会が開かれて、新役員会の意向でJCGLを閉じることが決定されました。僕は当時、JCGLの取締役だったのですが、とても辛かったです。社員には年明けに伝えました。100人くらいいたアーティストの人たちは3月いっぱいでみんな辞めてもらいました。ちょうどその前の11月ぐらいからナムコからの仕事をしていましたが、この話がナムコの中村社長に伝わり、ナムコでもCGチームを作るタイミングだったそうで、JCGLの人材を引き受けていただけることになりました。希望者を募ったところ大体3分の1ぐらいが手を挙げて、残りの3分の1は自分で別の行き先を見つけて、それで残り3分の1は全然別の業界に行ってしまいました。
現代の子供たちに映像教育が必要な理由
野口:今間さんはその後、どうされたんですか?
今間:NKK(※日本鋼管。2003年に川崎製鉄と合併し、現在はJFEスチール)に転職をしました。当時は鉄冷えの時代で、事業を多角化していたんです。そのときにCADの開発部隊として入社をしました。ここではデザイナーズCADと言って、出力データの見栄えの良いCGが求められていました。NKKは自社開発のCADとして販売をしようとしていました。後年私は、部署の配置換えで、後に3DCGソフトのPrismsを販売をするようになりました。NKKに5年間勤めた後、やはり制作の仕事をやりたくなってIMAGICAに転職をして、そこでインターネット事業「NOMAD」に携わりました。
野口:「NOMAD」とはどんな事業でしょうか?
今間:今では当たり前になった、オフィスを持たずに仕事をする働き方のノマドです。当時、IMAGICAではフィルムの現像や編集の仕事が将来的には減っていくという前提で、情報産業で多角化を図っていて、インターネットを事業の1つとして情報発信を始めていました。それで自分の得意分野として手始めにSIGGRAPHに行って取材をしたりして、毎日記事を書いていました。2年ほどその仕事をした後、デジタルメディアのスクールを立ち上げる仕事にも関わりました。まだデジタルハリウッドなどの学校が立ち上がる前のタイミングです。僕はCGスクールのカリキュラムの作成を行なったり、3DCGを教えたりしていました。ただ、1年半ほど運営した後、この学校に出資していた別の企業がトラブルを起こして、この学校は解散することになりました。生徒さんの半数ほどはデジタルハリウッドに引き取っていただきました。
野口:当時はマルチメディアブームで、その後あちこちにスクールができましたね。
今間:そうですね。そのさらに後には4年制大学でもCGを教える学科が立ち上がりました。そういった大学のうちの1つである尚美学園大学の情報表現学科に教員として呼ばれ、2000年から教えるようになりました。大学では教員がカリキュラムを作るのですが、僕は先のマルチメディアスクールで一通り作っていたので、そのまま問題なく続けることができました。
野口:大学の4年間のカリキュラムではどういったことを教えていたのでしょうか?
今間:僕の場合は、卒業までにたった1人でもVFX映像を作れる人を育てようということで、1年生でまずアニメーションを、2年生で実写を教えて3年生でシナリオや構成と、一通り教えて4年で卒業できるカリキュラムを組みました。2010年から首都大学東京(現:東京都立大学)に就任してからの、最後の5年間は360度映像のドラマづくりに凝っていました。360度でドラマを作ろうとすると、従来のカメラワークや照明のノウハウが全く使えないのです。そのため、演出や考え方のすべてを変える必要があるのですが、これは完成には至りませんでした。しかし2021年に「SIGGRAPH Asia 2021」が東京で開催されたときに、授業内で制作した360度映像のドラマ作品を5本ほど出品をしました。
野口:2022年に都立大学を定年退職されて、今後は子供達に映像のリテラシーを教えていきたいということですが、そのあたりお伺いできればと思います。
今間:子供たちに映像の作り方を1から教えていくことで、リテラシーを高めていきたいと考えています。フィンランドでは小学校で映像リテラシーを教えています。作例をたくさん見せて、どこにウソがあるかを見極めさせて、子供たちに討論をさせるそうなんです。今の子供たちがなりたい仕事の1つがYouTuberだという時代に、映像教育をしないのはまったくおかしな話です。
野口:なりたい仕事の上位に挙がるということは、それだけ多くの子供たちがYouTubeを見ているわけですから、それに際して映像のウソに騙されないよう、リテラシーを教育するべきですよね。
今間:なぜ行われないかというと、それは今の先生たちが、教え方を知らないからなんです。現在、美術の先生も教えているのは静止画だけです。でも、例えばフォローのようなカメラワークは映像の理論から教えるしかないんです。画面の色味だって最初からカメラ任せにしたらとんでもない画面になってしまいます。そうしたように映像がどうすれば面白くなるかを教えれば、いわゆる炎上するような映像で面白がったりはしないでしょう。
野口:編集一つでフェイクニュースを仕立てることもできますしね。
今間:そう。編集によって嘘をつくことができるので、作り手の原理を教えればフェイクに騙されることは減るのではないでしょうか。見たときに、「本当にそう言ってたの?」と疑問が浮かぶだけでいいんですよ。あともう一つ教育としてやりたいのは「アニメーテッドラーニング」です。これはデンマークで行われているアニメ作りを通じた教育です。例えば「冷たい水を入れたコップに水滴が付くのはなぜか?」という理屈を説明する映像を作るとします。そのとき、人に説明するにはどうしたら伝わるかを一生懸命考えるわけです。人に対する、プレゼンテーション効果を考えるんです。これはとても時間がかかる学習法ですが、知識偏重の勉強では決して身につかない洞察力を鍛えることができます。自分の出身小学校の夏休み講座で一度やってみたのですが、子供は大人が想像しているよりずっと早く吸収するし、面白がってやっていきましたよ。
野口:それにしてもやはり北欧地域はそうした教育が進んでいるんですね。
今間:北欧では冬の間に登校するのが難しいから、世界がこんなコロナ環境になる前から、遠隔での授業をすることが早く進んでいたそうです。そうすると映像に頼る必要があり、映像自体の危険性を同時に教えていく必要があったと言われています。今の世の中はフェイクニュースにまみれています。奇しくも戦争でプロパガンダ映像の危険が叫ばれている今、映像リテラシー教育が求められています。そしてそれを教えられるのは、実際に映像制作の現場にいる人達だと思っています。
- 今間 俊博
- 東海大学工学部通信工学科卒業後、日本特許情報機構に入社。その後JCGLの立ち上げに参画し、多くのCG作品の制作に携わる。解散後はデザイナーズCADの開発に従事し、イマジカに入社しインターネット事業NOMADの立ち上げに参画する。コンピュータの技術畑出身でありながら、早くからコンピュータ・アート分野への融合に取り組んだ。2007年に尚美学園大学芸術情報学部で教授を務め、2010年より首都大学東京(現:東京都立大学)でシステムデザインを教え2022年3月に定年退職。一般財団法人ズームグループ学術振興財団選考委員。
INTERVIEWER : | 野口光一(東映アニメーション) |
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EDIT : | 日詰明嘉 |
PHOTO : | 蟹由香 |
LOCATION : | 東映アニメーション |