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INTERVIEW インタビュー
デジタルコンテンツの未来
〜温故知新〜
CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はメディアアーティストであり日本最初期のCGプロダクション・SEDICのメンバーである藤幡正樹氏に話を伺った。東京藝術大学大学院生の頃からYMOとの仕事に携わるなどメディアアートを実践し、1983年のSIGGRAPHでは「Mandala1983」で世界に衝撃を与え、現在もNFTを使ったメディアアートの実践を行なう藤幡氏。コンピュータアートの歴史にも触れる刺激的な話が展開された。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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セゾン系CGプロダクション・SEDICの誕生秘話
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):トーヨーリンクスの設立メンバーの一人である福本隆司さんに日本のCGの黎明期のお話を伺った際に(第37回)、「日本のCGの歴史を語る際、JCGLと、トーヨーリンクスがよく挙がるのですが、SEDICも忘れてはいけません」と、おっしゃっていました。そこでまずは、SEDIC設立のお話から伺えればと思います。
(※)トーヨーリンクス
1982年6月1日設立。詳細は福本氏の記事を参照。2010年IMAGICAと事業統合。
(※)JCGL
1981年9月19日設立。日本で最初の商業CGスタジオ。詳細は福本氏の記事を参照。1988年3月解散。
藤幡 正樹(以下、藤幡): SEDIC(Seibu Digital Communication)は西武グループの広告代理店であるSPN(西武プロモーションネットワーク)のCG部門を独立させた会社です(1983年10月5日設立)。堤清二さんの当時の文化戦略におけるデジタルの旗印的な存在が六本木のWAVEビル(※)。この5〜7階がビジュアルのフロアになっており、そこにデジタル音響とCGのスタジオが拠点を構えました。ただ、「独立」といったように、組織としては82年頃から、今で言う赤坂のアークヒルズの近くのマンションの一室にSPNのCGチームがありました。このチームのリーダーが英 憲悦さんでした。
(※)WAVEビル
1983年11月18日開店。ビル1棟丸ごと文化を発信する施設として西武グループの堤清二会長(当時)の肝いりでオープンした。本文にあるビジュアルフロアに加え、地下にはミニシアターの草分け的存在のシネ・ヴィヴァンがあった。1〜4階はディスクポートという音楽販売のフロアになっており、世界中の音楽を取り揃えていた。同店の存在は日本の映像音楽業界に多大な影響をもたらした。1999年12月25日閉店。跡地は現在の六本木ヒルズのメトロハット棟になっている。
野口:英さんはどんな方ですか?
藤幡:当時、「ASCII」や「I/O」と並ぶコンピューター雑誌で「月刊RAM」(廣済堂出版)がありまして、僕は大学の後輩のお姉さんが紹介をしてくれて「RAM」の編集部に出入りしていたんですが、それと同じ場所にマイクロコミュニケーションズというソフトウェアハウスがあり、それを率いていたのが英さんでした。東京大学のマイコンクラブの牙城だったんです。そこで開発をしていたプログラミング言語のLISPをグラフィックに特化させたCG用の言語のG-LISPがあって、僕はプロモーションのためのアニメーション制作の依頼を受けたことがありました。その後、1982年の初頭頃に英さんが新しいプロジェクトをはじめるというので、そこに一緒に加わりました。このとき英さんをヘッドハントしたのが東豊彦さんというプロデューサーです。当時、日本でゼロから自前のプログラムでCGを作っていたのは大阪大学の大村先生(※)と英さんのところだけですから、「これからはデジタルの時代です」と堤清二さんを説得してCGのチームを作らせたのが彼だったというわけです。
(※)大村皓一
1982年、大阪大学工学部助教授(当時)に中心となって並列処理によるグラフィック・プロセッサ "LINKS-1" を開発。トーヨーリンクス設立に重要な役割を果たす。詳細は福本氏の記事を参照。
野口:どんなマシンを使われていましたか?
藤幡:マンションで準備していた頃はEvans & SutherlandのPicture System 2と、Three Rivers PERQがありました。ただ、VAX-11(※)がないと結局のところ仕事にならなかったんです。英さんたちはマイクロコミュニケーションズの頃にVAX-11を使っていたことがあって、UNIXのC言語で日常的にプログラムを書いていたわけなのですが、当時はまだ会社のマシンが届いておらず、新たに注文しようとしても半年もかかるような時代です。そこで、JCGLにお願いしてマシンを借りていたような状態でした。VAX-11を使うようになったのは、WAVEビルに引越してからです。
(※)VAX
DEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)社の32ビット科学技術計算用ミニコン、UNIX OSはこの頃、このマシンの上で開発されていたので、CG製作には必須のコンピュータだった。VAX-11シリーズは1977年10月に発表されて以降広く普及し1988年まで製造販売された。
野口:スタッフは他にどんな人がいましたか?
藤幡:英さんがメインプログラマーで、他に東大の大学院生の太田昌孝くん、それとリチャード・ハンプトンというアメリカ人がプログラマーでいて、あとは僕がモデリングとアニメーションのディレクションをしていました。いろいろ出入りはあるのですが、豊田誠さんや、仁村くん、新井くんといったメンバーがいました。
野口:藤幡さんはどんなところからCGに興味を持たれたんですか?
藤幡:もともとアニメーションが好きだったんです。それは特定の作品がというよりも、絵が動くという現象が。ちょうど僕が藝大の学部生の頃に、アメリカンセンターがアメリカの文化事情を紹介するシンポジウムを開催してたことがあるんです。その時に見たのは、オハイオ州立大学が作っていた「ANIMA-II」というアニメーションで、ポリゴンでできたクジラがグルグル泳ぐというCGなんですが、どうやって作っているのかまったく分からず、でも人間が描いているのではないことだけはわかる映像で、強い衝撃を覚えました。そこでコンピュータの可能性に注目していた方々と出会った方のひとりが柴本猛さんです。彼はビクターに勤めるエンジニアなのですが、勤務後に副業でコンピュータを研究していて、デモ用に借りてきたCP/M(※)というコンピュータを借りている間にデッドコピーしてしまうほどの実力者でした。
(※)CP/M
デジタルリサーチ社が開発したOS。8ビットのパソコンOSの代表的存在で、後にプログラムの一部が86-DOSに使われ、それをベースにMS-DOSが作られた。
野口:大企業で技術のあるエンジニアや先端的な人がコンピュータに注目しはじめた頃だったんですね。
藤幡:そんな時代の息吹を感じていました。実は、柴本さんに僕を紹介してくれたのが小学校の幼馴染の後藤君でした。話は前後しますが、彼とは大学生時代に偶然再会し旧交を温めるなかで、レーザーを使ったショーを制作するイベント会社でアルバイトをしていることを知りました。柴本さんもその周辺のエンジニアの一人だったのです。後藤君は開発担当でアセンブラでプログラムを書いていて、小さい鏡をガルバノメーターと呼ばれる装置でコントロールしてレーザーで文字を書く実験をしていました。近々矢沢永吉のコンサートで使うというんです。でもいきなり本番で使うのは危ないので、秋にある藝大の芸術祭で練習させてほしいと(笑)。実際に、レーザーで「芸術祭」という文字とミッキーマウスがウィンクするアニメーションを工芸棟に設置したレーザー装置から絵画棟の壁に投影しました。おそらくこれが日本で初めてのレーザーで文字を書いたイベントだと思います。そのときにレーザー装置のレンタル代が必要だったのですが、「ピコピコバッジ」という三角のアクリル板にLEDを2個付けて点滅するバッジを自分たちで作って芸術祭で販売して賄いました。物珍しくて200個くらい売れたんです。これにプランナーの方が興味を持ってくれて、発展させたものをYMOのプロモーション用に制作しました。この「YMOテクノバッジ」は4400個作りました。川崎の工場で生産するほどの大きな仕事になり、これがきっかけで先程の「月刊RAM」の編集部を紹介してもらうことになり、SPNの話につながるというわけです。だいぶ駆け足ですが。
「Mandala1983」制作とSEDICの終焉
野口:1983年4月のNHKのNC9(「ニュースセンター9時」)のオープニングタイトル制作は、クレイリサーチ社のスーパーコンピュータCray-1を借りてレンダリングしたとのこと。しかも現地のミネアポリスに2週間現地に行かれたそうですね。この経緯を教えていただけますか?
藤幡:前年のSIGGRAPH(ボストン)で、NHKディレクターの吉成真由美さんと知り合いまして、おそらく彼女からの推薦だったと思います。まだマンションの時代で、Evans & SutherlandのPicture System 2で動きと形のシミュレートをして、レンダリングはJCGLにお願いしてVAX-11を使わせてもらって基本的なところを仕上げました。レイトレーシング(光線追跡)を使っていたので、計算してみたら、すべての計算が終わるのが3ヶ月先になってしまうことが判明。このままでは放送に間に合わないので、当時世界最速だったスパコンのCray-1を使おうという話が浮上しました。当時のCray-1の国内代理店は三菱総研(以下、MRI)で、以前から数回使わせてもらっていたのですが、計算をしてもフレームバッファがないのでその場で画像を見ることができなかったんです。つまり現場でデバッグができない。それで相談してクレイリサーチ社の本社のマシンならフレームバッファーが繋がっているということなんで、これを無料で使わせてもらえるよう、交渉してもらいました。ただ、実際に現地へ行ってみると、本社では出荷前のコンピュータを整備しているわけです。整備というのはデバッグということですから、いろいろな方法でシステムクラッシュを起こさせて、原因究明して直すというのが仕事なんです。なので彼らが働いている日中は、こちらがプログラムを送って計算させていると、いつのまにかシステムがダウンしているという状態で、こちらの仕事が進まないのです。結局、僕らは夜中にコンピュータを使うという昼夜逆転の暮らしになってしまいました。3月末にダンボール2箱分のマグネティックテープを抱えて帰国してJCGLに行ってフィルムに焼いてもらい、NHKに納品したという形です。これはSPNにとってデモンストレーションみたいなもので、まったくの赤字仕事でした(笑)。
野口:同じ1983年7月末のSIGGRAPH(デトロイト)では世界に衝撃を与えた「Mandala1983」(※)を制作されました。
(※)「Mandala1983」
レイトレーシング技術をCG映像に本格導入したはじめての作品。SIGGRAPHで大評判となり、後にカナダで開催された「ビデオ・カルチャー展」のCG部門でグランプリを獲得。藤幡氏自身がアップロードしたもの<https://www.youtube.com/watch?v=r4K5Zmj0F2Y>
藤幡:レイトレーシングは計算時間が、べき乗に増えるので、そこをいかに減らすかがポイントでした。曼荼羅は動きとしてはグルグル回っているだけなので、実は45度ぶんしか計算していないのですが、それを反転させたり裏返したりしてオブジェクトの属性だけを変化させて計算させています。光がどこを透過してどこで反射するかといったレイトレーシングは、複数回計算するので非常に時間がかかるので、MRIのCray-1で行ないます。その結果を、いったんMT(マグネティックテープ)に記録し、次にSEDICに戻ってからVAXでMTを読みながら色付けといった属性の計算をして、フレームバッファに描き出した画像を、そのままレコーディングしたんですね。だから1枚1枚の絵のデータは残っていないんです。オープンリールのマグネティックテープとビデオレコーダーが繋がっているマシンでないと実現できないので、これを作ったのはSEDICのマシンが導入されていた頃ですね。
野口:その翌年のSIGGRAPH(ミネアポリス)では「弥勒」(※)を出品されました。
(※)「弥勒-Maitreya」
1984年制作。セクシュアリティをテーマにした作品で、球体とキューブで人間を表現している。音楽は細野晴臣。藤幡氏自身がアップロードしたもの<https://www.youtube.com/watch?v=wz7FvY-dWgE>
藤幡:そうですね。そのあと1984年の暮れぐらいから、会社の動きが怪しくなってきてきました。2年間のあいだで何本かTVコマーシャル映像を作ったけれども、ほとんど儲かっていないわけです。そのうち会社のプロデューサーが我々の意思とは違う方向に進むようになりました。本来はソフトウェア開発して売ることでよいポジションを取れるはずなんですが、リサーチフェイズからいきなりCG制作で元を取ろうとし始めたのです。ビジョンがなさすぎです。英さんを含めて順番に会社を去っていきました。僕も1985年に辞めています。その後はSPNの人たちがそのスペースを使うようになったのですが、そこにいたのが石原恒和さん。後に『ポケットモンスター』を作った人です。あと、筑波大の彼の後輩の岩井俊雄さんも出入りしていたかな。当時はまだ学生でしたが、とても面白い人物だったことを覚えています。
野口:辞められた後はどうされていたんですか?
藤幡:太陽企画の井堀社長を紹介してくれた人がいて、彼らも自社でCGを作ろうとしていたので、CG室の立ち上げに携わりました。1986年のことです。SEDICで一緒に仕事をしてきた大田昌孝くんに声をかけて「フロッグス」という会社を立ち上げました。プログラムはSEDICで書いていたものをベースに太田くんがすべて書いて、太陽企画用に最適化していきました。
日本のコンピュータアート黎明期のキーパーソンたち
野口:1987年に『geometric love』(パルコ出版)というアート作品集を出されましたね。CGが映像だけでなくアートになる段階に入ったという視点に当時、驚かされました。日本でCGアート作品を出されたのは藤幡さんが初でしょうか?
藤幡:いいえ。河口洋一郎(※)さんの師匠に出原栄一さんという方がいらして、彼はプロッターで出したラインドローイングで樹木の成長モデルを描いた『コンピュータグラフィック・樹木』(1983年)という端正で美しい本を出されています。フラクタルという言葉が出てくる前にフラクタル的な画像を作り上げた方です。さらに遡ると、川野洋さん(※)は1963年にアルゴリズムで画像を作っています。これが日本で最初のCGです。その後、1967年には東大工学部の山田学さんと月尾嘉男さんによって日本初のCGアニメーション『風雅の技法』が制作されています。この時代はコンピュータアートが芽吹いた時期で、1966年に多摩美大の斎藤義重さん(※)の門下生である幸村真佐男さんや東大の槌屋治紀さんを中心に、CTG(※)が結成されました。彼らは斎藤さんのアイディアを元に、J.F.ケネディ大統領やマリリン・モンローのモーフィング画像を制作し、現代美術の文脈で海外でも知られるようになりました。CTG解体後の1973年には端山貢明(※)さんが組織した「国際コンピュータアート展」が銀座のソニービルで開催され、幸村さんも副責任者として参加しています。
(※)河口洋一郎
CG アーティスト/東京大学大学院 情報学環 教授。詳細は河口氏の記事を参照
(※)川野洋
1925年生まれ。哲学者、美学者。東京大学文学部哲学科卒業後、助手を務めるなかで1964年9月に東京大学のコンピュータOKITAC 5090Aを使って計算した最初の「デザイン」を、日本の専門誌『IBMレビュー』に発表。新カント主義、記号論、情報理論研究を経て、CG、音楽に関する実験美学を実践した。1971年東京都立工科短期大学教授、1994年東北芸術工科大学教授。2005年瑞宝中綬章受章。2012年没。作品はドイツのZKM(Zentrum für Kunst und Medientechnologie Karlsruhe)に寄贈されている。著書に『美学』(1967)、『芸術・記号・情報』(1982)、『コンピュータと美学 ─人工知能の芸術を探る』(1984)などがある。
(※)斎藤義重
1904年、青森県生まれの現代美術家。幼い頃から美術に関心が高く、父の異動で7歳で東京に来てからは大正期の文学や美術に強く影響を受ける。戦争の影響もあり貧しい暮らしをしていたが、前衛芸術を続け53歳のときに第4回日本国際美術展でK氏賞を受賞。その後も国際的に高い評価を受け、1964年多摩美術大学教授に就任。関根伸夫や菅木志雄らはじめ、多くの芸術家を育てる。2001年没。
(※)CTG
Computer Technique Group。幸村真佐男、槌屋治紀を中心に,工学系と芸術系の総勢10名の学生が集まって1966年に結成されたコンピュータアート集団。1968年ロンドンの「サイバネティック・セレンディピティ」展に出品したほか、東京画廊で自動描画装置《APM no.1》を発表するなど作品制作や出展のほか、シンポジウムの開催なども行なうなど精力的に活動。1969年10月に解散。
(※)端山貢明
1932年東京生まれ。東京藝術大学作曲科卒業。パリ留学から帰国した後は放送音楽、映画音楽などを手掛ける一方、メディア研究に取り組む。1972年にコンピュータ・アート・センターを設立。1973年から「国際コンピュータ・アート展」を企画・実施する。1974年、ソシアルダイナミクス研究所を設立。1993年東北芸術工科大学のデザイン工学部情報デザイン学科教授に就任。代表作に『ビオラ協奏曲』(1955年)、『クラリネット協奏曲』(1956年)。文化庁芸術祭文部大臣賞受賞。2021年5月没。
野口:コンピュータアートは大学が中心だったんですね。藝大はいかがでしたか?
藤幡:社会全体的にコンピュータに関する情報がずっと少なかったので、僕が知る限り'80年代であっても藝大はそういう情報が得られる場所ではなかったと思います。最初に話したアメリカンセンターの上映会も友達づてで知った形でした。ただ、僕がいたデザイン科の内山昭太郎先生は、ビデオアートに関しての日本側の窓口にもなっていたので、時々海外から来たビデオアーティストを呼んで大学で講義させていました。ビル・ヴィオラ(※)が、1980年に来日して1年半東京に滞在していましたが、その受け皿になっていたのが原宿にあった中谷芙二子さんの「ビデオギャラリーSCAN」で、そこにはよく出入りしていたので、ヴィオラにも会いました。そういう意味では広い意味でのテクノロジーアートとかビデオアートにはそれなりに動きがあったと思いますが、狭い意味でのCGというものに大きなうねりがあったかというと、まだその時期には至っていない感じでしたね。
(※)ビル・ヴィオラ
1951年ニューヨーク生まれのビデオアーティスト。1976年に初来日。1980年に再来日し共同制作者でもある妻のキラ・ペロフと日本に滞在し、『はつゆめ("Hatsu-Yume")』を制作。生と死、再生、信仰といった宗教的、哲学的なモチーフを主題とする。日本の伝統文化に触れ、禅の師匠でもある画家、田中大圓を師と仰ぐ。2006年フランス芸術文化勲章を受章。
野口:話を藤幡さんの方に戻すと、『geometric love』を出版されてからメディアアートの方に進まれたんですか?
藤幡:そうですね。あれはコンピュータによる彫刻展です。それまでコンピュータで映像を作っていても実際に手で触れることができないということがフラストレーションがありました。それで工作機械メーカーの牧野フライスという会社を千代倉弘明さんに紹介してもらい、太田くんにプログラムを書いてもらって作りました。大日本印刷のギンザ・グラフィック・ギャラリーで展示すると、野口さんみたいに驚いてくれたりショックを受けた人も大勢いて、「近寄り難いものに見える」みたいな意見をいただきました。その反応を含めて、自分がやっていることは商業の枠組みに収まるものではないことに気づくわけです。特に海外でプレゼンテーションをすると、すでにアーティスト扱いで、あの彫刻はいわゆるエンジニアリングでもテクノロジーでも、テレビのオープニングタイトルみたいなコマーシャルなものでもない。純粋にそれ自体に価値があるものというか、そういうことに気づかされた。「新しいドアを開ける」みたいなことが起こったわけです。そうして環境が変わり、だんだんとコマーシャルな仕事とかと噛み合わなくなってきたんですね。そうしたときに時に、慶応大学が1990年に湘南藤沢キャンパスを作るという話を千代倉さんから伺って、企業の仕事をするよりも大学に所属したほうが好きなことをできると思い、お話を受けたというわけです。
NFTはデジタルアートをデータのまま未来に残すことを可能にする
野口:2021年10月に藤幡さんは「Brave new commons」(※)というプロジェクトで、NFT(※)アートのデジタルデータを販売されました。今回発売したものは'80年代から'90年代にMacで描かれたデジタルイラストですね。
(※)NFT
非代替性トークン(Non Fungible Token)。ブロックチェーン技術を用いたトークンで、製作者がそれぞれのデジタルデータに固有のIDを付与することができる。これにより、デジタル作品に「オリジナル」を証明することが可能になり、排他的所有の概念が生まれ市場での売買が加速した。
(※)「Brave new commons」
藤幡氏の未発表デジタルアート30点をそれぞれNFT付きで販売するプロジェクト。各作品の値段を購入者人数で割った額で購入し、分散所有するメディアアート。東京都千代田区の「3331 Arts Chiyoda」で開催された「符号理論」展で展示され、その後オンラインでプロジェクトが継続、2022年の1月末で終了した。<https://mf.3331.jp/>
藤幡:そう。売りに出した作品は、当時発表する当てのないままの未発表のものを選びました。僕は'80年代からコンピュータ上で何かを作ってきたわけですが、それを商品として売るときには、必ず別のメディアに変換していたわけです。CGもビデオテープやフィルムに焼いて納品していました。つまり、新しいメディアなのにそれ以前の古いメディアに合わせないと商品にはならなかったわけです。それがNFTであれば、複製物ではなく、自分が作ったものであるという証明書を自分自身が発行できる。これによってデジタルデータのまま販売することができるようになりました。面白いのはこの時間的な距離感。当時実際に描いたものであると証明もされているし、それに現在のパソコンでは再現できないような線もこれらの絵には残っているわけです。やっぱり機械的な制約があって、重たいマウスで引いたギザギザの線が逆に新鮮に見えるんです。その時間的な距離感やメディア環境の変化みたいなことが、そこに全部入ってて、一見くだらないけど実はそこに35年分の時間が入っているというところがみそなのだと思います。
野口:NFTにどんな可能性を感じていらっしゃいますか?
藤幡:従来の美術品には唯一性が価値とされてきて、そのシステムが長い歴史の中で構築されてきました。一方、デジタルはコピーがいくらでもできるから、オリジナルとコピーの概念がもう通用しないわけです。というかディスプレイ上で見るという段階でコピーされる必要があるわけですからねえ。NFTが登場するまでこの両者は対立するものとされてきました。デジタルデータに唯一性を与えられるというのがNFTの特徴ですが、それだけをNFTの特徴として考えているだけでは、結局、今までの美術品市場が作ってきたシステムと同じ範疇に入ってしまいます。「Brave new commons」は、デジタル作品というのは、そうしたシステムとは違うのだと考えてもらうために、1つのデジタルアートを複数の人に買ってもらえる仕組みを考えました。
野口:共同で所有しつつ、それぞれの購入者に作品の唯一性を担保できるんですね。
藤幡:分散所有と呼んでいます。これまで一般的に共同所有と言った場合、例えばピカソの絵を3月まで僕が持っていて、4月からあなたの部屋に飾っていいですよというやり方をしていました。つまりタイムシェアですね。でもデジタルならそんな必要はなく、同時にそれぞれのコンピュータに分散して所有していても良いんです。それぞれが「本物」であることは証明されていますので。
野口:分散所有のほうが良いのはどんなところでしょうか?
藤幡:分散所有の方が経年に対して強いんです。誰かが失ったとしても、別の誰かが持っていてくれるかもしれない。そしてその方が今後の世の中において生き残りやすくなるわけです。僕は希少性ではなく、残しておきたいと考える人がひとりでも多いことにこそ価値があると思っています。これまでも、僕はパブリックドメインという考え方に対して賛意を表明してきましたが、自由にコピーしてもらった方がいいという考え方なのですが、しかし何もかもタダでコピーされてしまうと、金銭的にまったく収入がなくなってしまうので、どこかで無理が来るわけです。そこでNFTを使うことで、唯一性を証明できて、この世に持っている人の数もきちんと把握できる。そうやって分散所有してもらうっていうのが一番正しいと思っています。今回の方法はシステム的にまだ改善の余地がありますが、それを修正してまたデジタルアート作品を販売しようと思っています。
野口:あとはフォーマットの問題ですね。今回は画像だから昔のデータを今でも見ることができますが、3DCGのデータはそのアプリがなくなったら開けなくなりますから。
藤幡:いや画像フォーマットも同じですよ。MacPaintという画像フォーマットには、拡張子が付いていませんでしたからねえ。今ではどのOSでも読めません。ただ、変換可能なので見ることは可能です。3DCGはまだ利用用途に揺らぎがあるので、もうしばらくそれぞれの目的に特化したフォーマットが出現しては消えてゆくんじゃないでしょうか。
背後にあるのは、近日設営準備中の機材。「White Balance」というネットからアクセスする作品で、ユーザーは室内に設置されたホワイトハウスの模型に当てる照明の色彩をネットから変化させることができる。ところが、ビデオカメラのホワイトバランス機能を使うことで、どんな色彩の照明があたっていようとも、ホワイトハウスは常に白く表現されてしまう。2021年1月6日のアメリカ国会議事堂襲撃にヒント得て作られた作品で、白人中心主義について考えるきっかけになればと作られ、2021年3月に一日だけ展示された作品。white-balance.netで近日中に常時アクセスできるようになる予定。
- 藤幡 正樹
- 1956年東京生まれ。日本のメディア・アートのパイオニア。神奈川県立希望ヶ丘高校卒業後、東京藝術大学、同大学院でデザインを専攻。'80年代にコンピュータ・グラフィックス作品《Mandala1983》をアメリカのシーグラフで発表し広く知られることになる。SEDIC、太陽企画CG室の立ち上げに参画し、1989年から慶應義塾大学環境情報学部で教鞭を執り、1999年から東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授、2005年から同大学大学院映像研究科の設立に参加し2012年まで研究科長を勤める。2015年に自主退職。2016年に内閣府より紫綬褒章を受章。現在は東京藝術大学名誉教授。2017年はオーストリアのリンツ美術大学、2018年は香港バプティスト大学、2020年はロスアンゼルスのUCLAの客員教授としてアメリカに滞在中。
INTERVIEWER : | 野口光一(東映アニメーション) |
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EDIT : | 日詰明嘉 |
PHOTO : | 蟹由香 |