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INTERVIEW インタビュー
デジタルコンテンツの未来
〜温故知新〜
CGと縁の深い方々にお話をうかがい、デジタルコンテンツの未来を見通していく記事をお届けする本連載。今回はJCGLからドワンゴまで、40年以上にわたりさまざまな立場でCGに携わってきた、LOGIC&MAGIC トータルシステム・スーパーバイザーの松野美茂氏に登場していただいた。お話の中には日本のCG産業における重要なポイントや貴重な証言が多数。現役ならではの最新のVR事情の展望までを語ってもらった。
【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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PRISMSの祖先はオムニバス・ジャパンに
東映アニメーション/野口光一(以下、野口):JCGLにはどういった経緯で入社されたのでしょうか?なかなか入社は難しかったと聞きますが。
松野 美茂(以下、松野):試験を受けて入社しました。JCGLでは『SF新世紀レンズマン』(1984年)のあとから、きちんとした採用試験をするようになったんです。試験問題を作ったのは今間(俊博)さんだったと思うのですが、CGのことをしっかりと分かっていないと解けない内容だったと記憶しています。僕はJCGLに入る前に富士通系のコンピュータ会社で会社員をしていて、そのあと日本電子専門学校に入って2年間勉強していて河口洋一郎先生の研究室出身だったんです。
野口:CGの勉強をするために会社員を辞めてまで。
松野:はい。もともとCGが好きで、会社員時代から調べていて、居ても立っても居られなくなって専門学校に入り直した形でした。先生の研究室はレベルも高く、ある程度知識があった上で勉強できたので非常に良い環境でした。ちょうど先生がSIGGRAPHで入選(「The GROWTH Model」、1982年)を果たしたタイミングだったので、SIGGRAPHの情報も多かったですね。そんなわけで、入社試験自体は僕にとって難しいものではありませんでした。ただ、一緒に受けていたのが東大や東工大の学生ばかりで、「これは厳しいかも」と思ったのですが、蓋を開けてみたら、そのときに採用された3人は皆、日本電子専門学校卒でした。
野口:それだけ日本電子専門学校がハイレベルだったんですね。JCGL入社後はどんな仕事に携わられたのでしょうか?
松野:今間さんの下、全員が開発部に配属されました。なかで一番功績があったのが、三好博幸くん。当時、JCGLオリジナルのソフトを開発していました。最終的に外販されたシステム名は「イメージメーカー」と呼ぶソフトウェアシステムでした。ソフトウェアは3種類あって、2D系のペイントシステムは全部彼が書いていました。そのペイントシステム「イメージメーカー」は、後にJCGLが解散したとき、ナムコに買収してもらったきっかけの一つになっています。3D系はレンダラーを先輩の加藤俊明(※)さんが、モデリングは同期入社の佐々木くんが作っていました。
(※)三好博幸
エンジニア。JCGL、ハイテックラボジャパン、HD/CG NY、BOSS FIlM STUDIOS、WARNER DIGITALSTUDIOSに在籍。後にソニー ピクチャーズ イメージワークスで実写作品のライティングツールなどを制作し、さらにRhyhm & Hues で活躍。
(※)加藤俊明
レンダラ開発者。JCGL, ポリゴンピクチュアズ等に在籍していた。後にRhythm&Huesで活躍。詳細は福本氏のインタビューで詳しく述べられている。現在はDreamWorkに在籍。
野口:その後、松野さんはJCGLを退職し、オムニバス・ジャパンの立ち上げに参画したそうですが、どんなようすだったのでしょうか?
松野:東北新社がオムニバス・ジャパンを始める際に、CMの仕事で関係があったJCGLやトーヨーリンクス、テクノクエストにいた人たちに声をかけていた様でしたが、実際には美術系のスキルを持ったC Mクリエイティブの人やCGを教えている人など集めているスタッフは多岐に渡っていました。CGの現場スキルを持った人たちは、その後の採用です。 東北新社では社長室付けでオムニバスジャパン設立準備室が設立され、そこに配属されました。当時、順繰りに半年ずつトロントのオムニバス社の本社に研修に行っていたのですが、僕の順番になって準備していたときに、カナダのオムニバス本社の倒産が伝えられました。フランチャイズとしてオムニバスジャパンは契約していたので、当時色々なものが随時送られて来ていました。資産が凍結される前に、慌てて開発に必要なソフトウェアコードやテープが送られた物もあったんじやないですかね。送られて来ていた、そのなかには、なんとPRISMSの開発コードが含まれていたんです。当時、オムニバス社でそれを開発していた人たちは、会社とともにコードも失われたと諦めかけていたのですが、オムニバス・ジャパンにコードが残っていたことに気づいて、東北新社と交渉して続きを作り始めました。後にPRISMSはHoudiniになるわけですが、その直接のおおもとはオムニバス・ジャパンにあったというわけです。
野口:オムニバスジャパンは当時、どんな機材を使っていたんですか?
松野:立ち上げのときの発注などを取りまとめる事になったのは僕で商社などに見積もりをお願いしたり、社内の意見を聞いたりしていました。WavefrontとAliasがメインのソフトウェアですね。コンピュータは最初はSGI IRIS 3130が4台。1人につき1台のワークステーションを割り当てる方式は、カナダ・オムニバスに倣ってのことです。サーバはSun-3でした。
最先端コンピュータでCG制作に挑んだNHKの『人体』
野口:オムニバスジャパンには86~7年のあいだ在籍されて、退職後、ハイテックラボジャパンでCGチームのリーダーを務められたそうですが、どんなきっかけで?
松野:ハイテックラボジャパンはアスキーを退職した『LOGIN』誌編集長だった吉崎武さんが設立したマルチメディアのシステム開発・アプリ開発の会社でした。吉崎さんとは以前、ニコグラフ(NICOGRAPH)で名刺交換をしていて、あるとき急に電話かかってきて、「CGチームのリーダーが辞めるんで、代わりに来てくれないか」と、スカウトがあったんです。そのときはオムニバスを辞めて数カ月間フリーで、一度CGチームを率いてみたいなと思っていたところだったので、二つ返事で入社したというわけです。入ってからなぜ前任者が辞めたかが分かりました。このときハイテックラボジャパンではとんでもなく難しい案件を抱えていたんです。それがNHKの『驚異の小宇宙 人体』(※)でした。
野口:あの『人体』!
(※)『驚異の小宇宙 人体』
1989年に6回に渡ってNHKで放送されたドキュメンタリーTV番組。50分番組のなかでCGのシーンが各回平均で10分以上もあり、当時としては例がないほど多くのCGが使われていた。
松野:それも、CGが最も多い第6回の「生命を守る・ミクロの戦士たち」。バクテリアと免疫の戦いみたいなものをCGで初めて描くという内容です。最初の打ち合わせのときにNHKの伊藤博文(※)さんというプロデューサーと映像デザイン部のディレクターの佐々木和郎さんが3cmぐらいの分厚い紙の束を持ってきて、「これを作りたいんです!」と熱心にご説明をされたのですが、見た瞬間に血の気が引きました。それは絵コンテではなく、全部イメージボードだったんです。その時点でオンエアまで1年半くらい。ハイテックラボジャパンのマシンのスペックやチーム規模から考えると、全部を映像化するのは絶対に不可能だと思いました。だから、先方には「とにかく絶対に必要な要素を出してください」と言って、まず4枚、次に4枚……といった形で作り始めました。そうすれば、編集をして最低限オンエアに傷がつくことはなかろうと。12枚ぐらいできればもう御の字だと思っていました。
(※)伊藤博文
1954年生まれ。元NHKのプロデューサー。『驚異の小宇宙 人体』で第29回日本テレビ技術賞受賞。ハイビジョン専門のCGプロダクションHD/CG NYを立ち上げた。退局後LAにMagic Boxを設立、ハリウッド映画、テーマパークのCGやVRインスタレーションを制作。帰国後、画像処理系ITベンチャーを共同創業。2022年、ソニーミュージックエンターテイメントと、インカメラXRスタジオを駆使したテレビ&YouTube番組「DeepTV.art」を企画、総合演出。
野口:ハイテックラボのCGチームは当時何人いたんですか?
松野:9人ぐらいだったかな。うち2人が新卒だったから『人体』のメインは基本的に5人で、途中で三好くんも呼んでメタボールのレンダラ書いてもらいました。『人体』で最初に作った映像は、上皮細胞を攻撃する細菌という宇宙戦争みたいなもので、これは本吉なおこ(※)さんによるもので、その出来がすばらしかったんです。これはPixar Image Computer(※)を使ってコンポジットしたものでした。
(※)Pixar Image Computer
1986年7月に発売されたグラフィックコンピュータ。医療用画像処理や気象学への用途を狙い、当時最先端のスペックを誇ったが、13万5000ドルだったことに加え使用するにはワークステーションが必要だったりとあまりにも高額だったため、世界で300台程度しか売れなかった。
野口:ハイテックラボは持っていたんですか!?
松野:そうなんです!なぜか吉崎さんが買っていたんです。当時、JCGLにもあったそうですが、パネルのデザインのバージョンからしてハイテックラボの方が先かもです。JCGLは付属のデモソフトでお客さんを驚かすアニメーション再生をする程度の使い方だったのですが、ハイテックラボでは自分たちで映像取り込んでコンポジットしたり、ボクセルレンダリングもやっていたんです。ハイテックラボは、今で言うところのドワンゴみたいな会社で、屈強なエンジニアが多かったんです。ただPIXARには既存ソフトウェアとのインターフェースがなかったから、他に持って行きようがなかったんですね。
オモチャ箱をひっくり返したような会社 ハイテックラボ・ジャパン
野口:それで、『人体』の制作は結局どうなったんですか?
松野:そこで、Wavefrontとピクサーイメージコンピュータを組み合わせたんです。当時32レイヤーぐらいの多重コンポジットをしていたのですが、Wavefrontのコンポジットソフトでは全く容量的にもスピード的にも足りないので、本吉さんは自分でレイヤーデザインをして、スタッフにピクサーをコンポジットの受けにするコードを書いてもらいました。当時ハイテックにあったIRIS 3030(※)でコンポジットすると1枚につき30分ぐらいかかってたのが、ピクサーは1秒足らずでコンポジットするわけです。グローエフェクトも10分20分かかるのが、1秒以下で終わるんです。そんなわけで、3030が4台しかない会社が、あの映像を作れたというわけです。ピクサーって本当にスゴいなと思いましたね。
(※)IRIS 3030
1990年にシリコングラフィックスが年に発売したワークステーション。プロセッサはMotorola 68020が搭載され、10×8MHzジオメトリーエンジンを搭載したEnhanced IRISグラフィックスが採用されている。
野口:ちょうどその頃はピクサー自身も短編を作り始めた頃ですね。
松野:そうですね。本吉さんもその勢いで自分で短編(『The Robe of an Angel』)を作って、1990年のSIGGRAPHで入選したんです。あと、ハイテックラボでぜひ記録に残していただきたいのが、Abel Image Research(※)(以下、AIRソフトフェアをこの時期に所有していたということです。あるとき、カラー(Culler)(※)の刺さったSun3を立ち上げたら「Abel Image Research」と表示されて、同社の全ソフトが入っていたんです。僕はJCGLとオムニバスでカラーの導入を進めた人間ですから、立ち上げるとカラーのファームウェアメッセージが出てくることが分かっていたんですけど、そのファームウェアは通常のものではない。「普通のカラーのソフトウェアではないファームウェアを読み込み始めて、AIR専用機になる」とメッセージが出てるんですよ。なんと、AIRのレンダラを動かすためだけのコンピュータにファームウェアレベルで改造されてたんです。
(※)Abel Image Research
RA&Aが倒産した後、ロバート・エイブルが改めて1984年に設立したCG会社、およびそこで使用されていた高度なアニメーション/レンダリングソフト(通称・AIR Software)。イギリスのエレクトリック・イメージ、ドイツのミュンヘンのスタイナー・フィルムなどで使用された。1985年に会社ごとカナダ・オムニバス社に買収された。
(※)カラー(Culler)
アクセラレータボード。中にミニクレイ的なベクトル演算機が入っており、CPUを乗っ取る形でベクトル化して高速化する。
野口:あれって売っていたんですか!?
松野:実は売っていた。というか、買おうとする人には売ったんですよ。すごいのは、3030なんだけどマルチウィンドウが開かれるんです。ビックリしましたね!当時、マルチウィンドウで動くCGソフトウェアは他に存在しませんからね。パロアルト研究所にあるらしいと聞いていたぐらいの時代ですから、夢みたいでした。ただ、めちゃくちゃ重かった。AIRの機能はレンダラも含めて全部入っていたんだけど、みんなが使わなかった理由はそれ。AIRはそもそも、Wavefront開発者の一部が移動して作られたものだから、機能も似ているんです。Wavefrontは実用性において優れているけど、理想系はこっちみたいな。でも重い(笑)。ハイテックラボはオモチャ箱をひっくり返したような会社でしたが、まさにそのオモチャでした。
野口:その当時、AIRはアメリカで売ってたんですか?
松野:多分、公には売っていなかったと思います。その後カナダ・オムニバスに買収されて、AIRの資産も全部1本になっちゃって、PRISMSをメインにするから開発を統合させられちゃっているんですよ。ハイテックにあったのは、Abel Image Research製のカラーだったんですよ。ピクサーを並行輸入できる実力があった会社ですからね。
モーションキャプチャーのコンサルから『ガンダム』のCG制作へ
野口:『人体』のあとは?
松野:そこから2年ぐらいで辞めて、フリーランスで9ヶ月ほど過ごした後、伊藤博文さんのイタリア万博向けの作品の助っ人で入りました。非常に過酷な現場でした。そのあと伊藤さんはニューヨークでハイビジョン専門のCGプロダクション「HD/CG NY」を立ち上げ、その後ロサンゼルスでも「Magic Box」を設立しました。日本にもマジックボックス・ジャパンとして、NHKエンタープライズ(以下、エンプラ)の一室に作るというので、僕は電話番として入りました。その関係でエンプラに業務委託されていた時代がありました。当時はマジックボックスやN H Kエンタープライズがハイビジョンで映画を作りたくて、『大霊界』(※)のプロデューサーをしていた坂美沙子さんがエンプラにはいたので、お互いに技術交換をしていました。 その後、C Gチームを拡充していく事になるのですが当時、エンプラでは機材やソフトウェアの1号機を買うことが多くて、Deskside Onyx上で動くFLAMEとかWSDというディスクレコーダーなどを最初に導入していました。それらを目利きするのは僕だったので、商社からの売り込みも凄かったです。だからといって、接待を受けるようなことはもちろんありませんでしたが。ただ、情報も集まるのでさらに良いものをいち早く買いやすい状況ではありましたね。
(※)『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』
1989年の映画。丹波哲郎のベストセラー「丹波哲郎の大霊界」を原作とし、脚本も手掛けた。同年の邦画配給収入第9位を記録するなど大ヒットした作品。
野口:基本的にマジックボックス・ジャパンではNHKの仕事をしていたんですか?
松野:基本的なルールとして、NHKの仕事が優先でしたが、他の局の仕事もしていました。TBSがデジタル好きだったから、そこの仕事も多かったですね。マジックボックス・ジャパンが解散してしまったその後もNHKの仕事や民放の仕事、音楽PVやCMなど何でもやっていましたね。その頃はNHKエンタープライズCG-ROOM呼ばれていました。坂さんはプロデューサーとして束ねてくれていました。その後、CGルームの初期メンバーがいなくなり、坂さんがOLMに行くことになり、チームごと移籍となりました。これがOLM Digitalが実写映画に進出するきっかけです。そのときエンプラが持っていたFlameが日本での1号機でOLMに移動した訳です。僕はIMAGE STUDIO 109に招聘されて、モーションキャプチャーシステムのスタジオ立ち上げのコンサルをしていました。
野口:合成ソフトのFlameがあったからその流れでポスプロ関係もやる。
松野:そもそもエンプラ時代に、ダイキンさんが輸入した磁気式のモーションキャプチャーシステム、これが多分日本で初めて輸入されたものなんだけど、「行き場がなくて使ってもらえませんか?」と言われて、研究した結果、納入することにしたんです。それでCGのラジオ体操(NHKでオンエアした)をウチのCG-ROOMで作っていたんです。その後、IMAGICAのモーションキャプチャー桜亭スタジオを立ち上げる少し前に、山本裕平さんに呼ばれて、アメリカのモーションアナリシス社に光学式のものを買いに行くときのコンサルをしていた繋がりがあって、エンプラで使わなくなった磁気式を貸与しました。だから、桜亭は立ち上がりのときに光学式と磁気式の両方をモーションキャプチャーシステムを持っていたんですよ。
野口:そのあとのフィルモグラフィーを拝見すると、ガンダムの仕事に長く携わっていますね。これはどんな経緯で?
松野:1999年に富士急ハイランドの『GUNDAM THE RIDE』の依頼が来たんです。当時、サンライズに富樫さんという知り合いがいて、その伝手でプロデューサーの堀口滋さんに呼ばれ、『GUNDAM THE RIDE』CG制作の組織作りを担当しました。チーム編成は5つのチームからなっていて、RIDE映像を5つのパートに分けました。ルーデンスの増尾隆幸さんの他に、アイデンティファイやオガワモデリング、フレームワークス・エンターテインメントと、フリーランスチームで作っています。結果、富士急ハイランド側が満足するものを作れたので、すごく信頼を得て、その後、サンライズ谷原スタジオで『SDガンダムフォース』や、『GUNDAM EVOLVE』シリーズといったCG作品でCGプロデューサーを務めました。
野口:その結果、堀口さんと知り合ってA-1 Picutresに?
松野:いえ、それが逆なんです。元サンライズで堀口さんの上司だった植田益朗さん(当時A-1 Pictures常務)が僕を呼んで、その後に堀口さんに声を掛けました。基本的には堀口さんはサンライズの人だったので一時的にレンタルする様な契約を植田さんが纏めたのです、サッカー選手みたいだなと思いました(笑)。その時はCGパートの異常に多い『超速変形ジャイロセッター』を52話1年間作ったときの応援だったのですが、植田さんから誘われて、そのままA-1に残り、現在もCGプロデューサーを務められています。植田さんはサンライズ谷原スタジオ(スタジオプロデューサーは堀口さん)で作ったSDガンダムのCGチームを高く評価していて、フルCGのスタジオを作りたいという青写真を描いておられました。ただその後、植田さんもA−1からアニプレックス社長に昇進され、現実的にはフルCGスタジオは難しいだろう事が分かり、実際にフルCGのスタジオを作ったドワンゴに移籍しました。
最先端の現場から実感するCG業界の行方と可能性
野口:このあたりは以前伺った、太田社長のお話と重なるところですね。松野さんには『バーチャルさんはみている』についてうかがいたかったんです。プロトタイプはNHKの「バーチャルのど自慢」?
松野:いえ、この2つは同タイミングの制作ですね。川上量生(当時ドワンゴ代表)さんが1月スタートの番組を前年の9月に持ってきたんです。だからあの会社の中のいろんな人を巻き込んで、ドタバタで作りました。阿部大護さんを監督で行くことは決まっていたので、彼のやりたいものをみんなで作っていった形ですね。
野口:VTuberとしてのシステムを作っていてあれになった?それとももう1からシステム作った?
松野:1からですね。ほぼ同時期にバーチャルキャストという会社ができて、VRM(※)を提唱していくきっかけになった。バーチャルさんとかではVRMの仕様はまだなく、バーチャルさんでゴリゴリ力技やっていたので、VRMみたいなのができたみたいな形です。ちょっと意味は違うんだけど結果的にはそういう使われ方していた。VRMは、ACM SIGGRAPHに提案してオーサライズを受けているので、Vulkanなどと同じようにきちんと批准されているものです。逆に言うとパブリックドメインのものだから、VRMを拡張したいのであればドワンゴでなくても提案すればどんどん変わってくるんです。
(※)VRM
人型3Dモデル(アバター)のファイル形式。多くのアプリやプラットフォームで互換性があり、アプリケーションをまたいで同じ3Dモデルを利用できる。
野口:今後の日本のCG/VFXはどうなっていくと思われますか?
松野:CGって、儲からないですよね(笑)。たとえば日本のアニメ業界は製作委員会や監督さんが中央集権的に方向性を決めてるんで、その方向性が外れたり飽きられたら続けられなくなる可能性があります。おそらく最適解は多様性でしょう。チームごとにさまざまなものを作り、どこかでアタリが出る可能性を常に残すべきでないかと。ただ、作り続けることで人が疲弊してしまう点は改善の余地があると考えます。そのカウンターとして、『セスタス -The Roman Fighter-』ではキャプチャーベースで短期間で効率よくアニメを作れる体制を構築する事を目標にし実現することができました。(1クールのセスタスの制作期間は9ヶ月、9話分がフルCG)
(※)『セスタス -The Roman Fighter-』
技来静也のマンガを原作としたTVアニメ。2021年4月から6月まで放送された。制作・BN Pictures。格闘シーンはLOGIC&MAGICによるCG。モーションキャプチャーの際にはプロテクタを装着の上、実際に打撃を当てることでアニメーション制作の負担を減らした。
野口:現在のアニメシーンはファンの視線が作画アニメの方に注目がいっているので、CGは作りづらい時代になっている印象がありますね。
松野:ただ、今どきはどんな小さな作品でも結構な量のCG使ってるし、CGに対して違和感を持っている人が意外と少ないから、アニメにおいて、なくてはならないピースになったとも言えます。ただ、筋道立てて量産化するアプローチをやらずに、いつもように総当たり戦でやってるからエネルギーが拡散してしまっているようにも感じます。なので早急に量産化のシステム構築は必要です。
野口:では期待できるのはメタバースの方向に?
松野:セカンドライフみたいになるかもしれませんが(笑)。ただ、あれだって最高潮のときはどんどん企業が入ってきたから、そこまでは行くでしょう。今はVRChatが往年の「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」状態で、何か面白そうなことを起こそうとエネルギーが集積している状態にあります。それが正に出るか負に出るか、それは中にいる人たちと周りのパワー次第ですが、僕は収縮に行かないことを希望します。上手く産業的に着地するような回収モデルができることを願っています。
- 松野 美茂
- トータルシステム・スーパーバイザー
JCGLを経て、オムニバス・ジャパンの設立に参画。その後、桜亭スタジオ、サンライズ 谷原スタジオなど、各地でスタジオ設立とCG映像制作に携わる。太田豊紀氏と共にTUNEDiDを立ち上げた後、LOGIC&MAGIC設立に参画。
■フィルモグラフィー
1995『ガメラ 大怪獣空中決戦』(映画) CGI
1996 『藪の中』(映画) CG
1996 『ガメラ2 レギオン襲来』CGIガメラユニット・テクニカルスーパーバイザー
1997 『ねらわれた学園』(映画) CG
1998 『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(映画) CGコーディネーター
1999 『富士急ハイランド モーションプラットフォームアトラクション GUNDAM THE RIDE』CGプロデューサー
2000 『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』(映画) CGプロデューサー
2003 『GUNDAM EVOLVE PLUS』(OVA) CGプロデューサー
2004 『ULTRAMAN』(映画)VFXコーディネーター
2004 『SDガンダムフォーズ』(TV) CGプロデューサー
2006 『GUNDAM EVOLVE../Ω』(OAV) CGプロデューサー
2006 『GUNDAM EVOLVE../A』(OAV) CGプロデューサー
2012 『超速変形ジャイロゼッター』(TV) CGプロデューサー
2016 『BROTHERHOOD FINAL FANTASY XV』(WEB) CGプロデューサー
2021 『セスタス -The Roman Fighter-』(TV) CGプロデューサー
INTERVIEWER : | 野口光一(東映アニメーション) |
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EDIT : | 日詰明嘉 |
PHOTO : | 弘田充 |
LOCATION : | 東映アニメーション |