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INTERVIEW インタビュー

3DCGの未来
〜CGアニメとメディアリレーション〜

福本隆司
【第37回/2020年6月号】
福本隆司(クリエイティブ・プロデューサー、神奈川工科大学情報メディア学科教授)

日本におけるフルCGアニメーション制作への理解と振興を目指す本連載。「3DCGの未来 ~CGアニメとメディアリレーション~」とリニューアルをし、CGアニメと関係するさまざまなメディアのキーパーソンにお話をうかがっていく。
今回は日本の黎明期のCGプロダクションであるトーヨーリンクスの立ち上げに関わり、後に社長を務めた福本隆司氏に当時の様子から日本のCG技術の発展と変遷を、多くのキーパーソンのエピソードを交え仔細に渡り語っていただいた。歴史的な貴重な証言の他、企業経営や次なる世代の人材育成まで非常に多岐にわたるロングインタビューをお届けする。

【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
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日本のCGプロダクション黎明期をつくった JCGL、トーヨーリンクス、SEDIC

福本隆司

東映アニメーション/野口光一(以下、野口):今回はトーヨーリンクスの第一号社員であり、日本におけるCGの黎明期を体験された福本さんに、その時代のようすや関わられた方々について伺い、記録に残すという内容です。今では日本の最初期のCGプロダクションであるJCGL(日本語表記:コンピュータ・グラフィック・ラボ)やトーヨーリンクスという名前も、だいぶ聞く機会が減ってしまっているように思います。

福本隆司(以下、福本):そうですね。JCGLは大口孝之さんがお話しされていましたが、「トーヨーリンクスのことは自分には書けないから、福本さん書いてよ」ってずっと言われていましたから(笑)。ただ、日本のCGの歴史を語る際、JCGL(1981年9月19日設立)と、トーヨーリンクス(1982年6月1日設立)がよく挙がるのですが、SEDIC(※)(1983年10月5日設立)も忘れてはいけません。藤幡正樹(※)さんらを中心に『Mandara 1983』や『MIROKU-Maitreya』(1984年)という短編を制作しています。他にもスーパーコンピューターを借りて『NC9』(NHKの夜の報道番組『ニュースセンター9時』)のタイトルロゴなどを作るなどしていたのですが、藤幡さんの活動がその後、メディアアーティストにシフトしていき、SEDICは1986年に広告代理店I&S(現I&S BBDO)の一部門となりました。

(※)SEDIC
SEIBU DIGITAL COMMUNICATIONの頭文字をとってSEDICと名付けられた。西武流通グループのクリエーティブ・エージェンシー「SPN」(西武プロモーションネットワーク)としてクレジットされることも多い。

(※)藤幡正樹
メディアアーティスト。’90年代以降はインタラクティブ作品を発表。慶應義塾大学環境情報学部で教鞭を執り、2005年東京藝術大学美術学部映像研究科長。1996年に《Global Interior Project #2》で日本人初のゴールデン・ニカを受賞。2016年には、’70年代から現在までの主だった作品をARを使って見ることのできるアーカイブ本《anarchive #6 Masaki Fujihata》をフランスで出版。

野口:トーヨーリンクスの場合はどなたが中心人物だったんですか?

福本:キーパーソンは映画プロデューサーの山本又一朗(※)さんと、当時大阪大学の助教授だった大村皓一(※)先生ですね。山本さんが実写映画で『ベルサイユのばら』(1979年公開)を撮るときにベルサイユ宮殿をCGで再現するというプランがあったそうですが、それがなくなり、次に企画として出たのが『鉄人28号』(注:2005年に実写映画化されたがそれとは別の企画である)の実写化でした。鉄人をCGで作って実写と合成しようとしていたんです。後にトーヨーリンクスのメンバーとなる人々と最初に僕が関わったのはそのときでした。まだ全然会社組織にはなってなくて、チームは大阪大学工学部の研究室の中にあった頃でした。

(※)山本又一朗……1947年生まれ、鹿児島県出身。映画プロデューサー。'73年、TVドラマ『子連れ狼 (萬屋錦之介版)』の企画・プロデュースでキャリアをスタート。以降、『太陽を盗んだ男』(1979年公開)、『ベルサイユのばら』(1979年公開)、『愛・旅立ち』(1985年公開)など多くの作品に携わる。1993年には映画製作・マネジメント会社であるトライストーン・エンタテイメントを設立し代表取締役に就任。

(※)大村皓一……1938(昭和13)年、上海生まれ。1960年、大阪大学・工学部通信工学科を卒業。1968年、同・大学院博士課程修了(工学博士)。1973年、同・工学部電子工学科助教授となる。1988年、大阪学院大学・国際学部教授に就任。退官後は、大阪学院大教授や宝塚大学副学長を勤める。

福本隆司

野口:福本さんは大阪大学の学生だったんですか?

福本:いえ。僕は大阪芸術大学映像計画学科(現:映像学科)で映画を学んでいました。卒業してからアメリカ留学のためのアルバイトをしていたのですが、映画業界に入った大学の先輩から「山本又一朗というプロデューサーは今、阪大の先生と組んで日本でコンピュータグラフィックスを開発しようとしてるぞ」という話を聞いて、CGに興味があったので山本さんを訪ねたんです。彼のオフィスも当時はまだスタートアップという頃で、いろいろと勉強させていただきました。「『超人ロック』っていう原作があるんだけど、このエネルギー波を既存の技術じゃない方向でどんなイメージで考えるか?」といった宿題を出されたりしていました。

野口:それは難しい……!

福本:でも自分は、レーザー光線ショーをやっている会社のアルバイトもしていたから、空き時間を借りて面白いレンズを作って、それでレーザーを拡散すると面白い模様ができるのでそれを切り貼りしてイメージを作って持って行ったら、山本さんも認めてくれて大村先生に会わせてくれたんです。

CGとの出会い

野口:福本さんがCGに興味を持ったきっかけは何でしたか?

福本:ひとつ大きなきっかけは大学2年のときに観た『スター・ウォーズ(Star Wars)』ですね。アメリカでは前年に公開されていたのですが、「映画の中の一部でCGが使われているらしい」という情報がきたわけです。一体どんな技術なんだろう?と自然に興味がわきました。隣の文芸学科に小松左京さんがいて、可愛がってもらっていた繋がりで、卒業後の相談をしたんです。それで、CGだったらトーマス・デファンティ(Thomas A. DeFanti)(※)が知り合いだということで、彼のいるイリノイ大学を紹介してもらえることになったんです。そこに留学しようと神戸のポートピア博’81でアルバイトをしつつ、さっきの流れで今度は自分から大村皓一先生に会いに行ったんです。大村先生もそういうふうに外から若者が来ることを喜んでくれて、2回目に研究室に行くときは寝袋を持って行って、そのまま阪大の研究室に居ついちゃいました(笑)。

(※)トーマス・デファンティ……1948年生まれ。オハイオ州立大学でコンピューター情報科学博士号。3次元のリアルタイムアニメーションシステムであるGRASSプログラミング言語を作成。GRASSおよび改良版ZGRASS言語は、ラリーキューバを含む多くのコンピューターアーティストによって使用され、『スターウォーズ』のデススターシーケンスを生み出すこととなった。

野口:その頃はもうCGをやり始めていたんですか?

福本:やり始めていましたね。まだ4台だけで並列処理して画像を生成していた頃で、ちまちまレンダリングして数時間経つと単純な三角形が真っ暗闇の中に銀色の金属片みたいに浮かび上がって、それを単純に「綺麗だなぁ」と思って見とれていました。

野口:じゃあその頃から計算が重いとされていたレイトレーシングでレンダリングを?

福本:そうですね。LINKS-1プロジェクト(※)がユニークだったのは、レイトレーシングのアルゴリズムによる、専用のハードウェアとソフトウェアの開発だったんですよ。無茶ですよね。でも大村先生はこれを何百台で並列処理をやればいいんだ、と。

(※)LINKS-1……1982年、大阪大学工学部電子工学科の大村皓一助教授らが中心となり、並列処理によるグラフィック・プロセッサ "LINKS-1" を開発。その後、トーヨーリンクスにおいて、レイ・トレーシングの制作能力を大きく向上させた "LINKS-2" システムが開発された(参考:『コンピュータ・グラフィックスの歴史 3DCGというイマジネーション』 大口孝之 著/フィルムアート社)

野口:そのアルゴリズムはきっとあったんでしょうね。

福本:考えて作られてるんですよ。その当時の阪大のマスターとかドクターっていうのはすごい優秀なんですよ。その延べ80人くらいの学生の中に、ぽつんと一人、4年間芸術大学で映画を勉強していた人間がテストパイロットのように入れられて、バグだらけの新しいプログラムに対して「ああしたらいい、こうしたらいい」という状態。たとえばロトスコープはCGに応用が効くと思ったんです。アニメーションだと一面だけの平面じゃないですか。でも三次元のアニメーションを作りたいわけだから、二面のロトスコーピングができれば三次元のアニメーションが作れるはずだと作ったのが『Bio-Sensor』(※)(1984年)でした。

(※)『Bio-Sensor』……TOYO LINKS / LINKS / Links DigiWorks / IMAGICA フィルモグラフィー参照

福本隆司

トーヨーリンクスの始動と『ゴルゴ13』

野口:福本さんたちのチームはいつからトーヨーリンクスに移動するんですか?

福本:大村先生が企画書を書いて、当時の東洋現像所(現IMAGICA Lab)(※)の幹部の人にプレゼンして、産学連携が始まりました。当時の国立大学は今のように企業とコラボレーションをすることが多くなかったので、学内外のさまざまな問題を解決する必要があったそうです。東洋現像所は、「やがてフィルムがなくなる時代が来る。これからはビデオだ」と、品川にビデオセンターを作っただけでなく、さらにコンピュータグラフィックスに投資をして、そのなかで産学連携を行ったそうです。

(※)東洋現像所……1932年、染料や化学薬品を製造・販売していた長瀬商店の長瀬徳太郎が、トーキー映画の現像所「極東フィルム研究所」を設立。1935年、「極東現像所」として独立。1942年、社名を「東洋現像所」に変更。1986年、社名を「IMAGICA」に改称。2006年、会社再編により持株会社イマジカ・ロボットホールディングスの中核会社となる。2018年、グループ企業統合の上株式会社IMAGICA Lab.に社名変更した。

野口:それでみなさん、設立されたばかりのトーヨーリンクスに入社したというわけですね。

福本:いや、大阪大学出身者はみんな東洋現像所に正社員として就職したんです。というのも、当時はベンチャーだのスタートアップ企業なんて概念がほとんどない時代ですから、そんな訳のわからない会社に、阪大の大学院の卒業生を送り出せないということでした。東洋現像所は歴史のある会社だから良かったんですけど。

福本隆司

野口:福本さんならトーヨーリンクスでも大丈夫だと(笑)。

福本:ええ、トーヨーリンクスの第一号社員ですよ(笑)。でも最初はスパイなんじゃないかと疑われましたからね。だって、みんな東洋現像所に入りたがるのに、お前だけこれから作る会社に入りたいというのは怪しい、って言われて(笑)。で、東洋現像所には大阪大学からハード担当の大野廣司、ソフト担当の吉村浩が入り、そこからスタートしたわけです。

野口:じゃあ最初はトーヨーリンクスは阪大で立ち上げたというわけですか。

福本:登記上は東京青山でした。でもまだペーパーカンパニーで。

野口:実作業は阪大でと。

福本:そうです。阪大のほうにコンピュータがあるわけだし、東京の事務所に置くハードウェアはまだ開発されていなかった頃ですから。

野口:大野さんや吉村さんたちも阪大で研究していた?

福本:いや、彼らは東京で普通に東洋現像所の正社員としての研修などがあるので、制作がらみのことは福本が東京と大阪を行き来していました。

野口:それでハード、ソフトを開発しながら映像を作っていた、と。

福本:ただ、青山にペーパーカンパニーを作ったのにも目的があって、その最初の取り組みがアニメーション映画『ゴルゴ13』(1983年公開)(※)です。山本又一朗さんから自分はあるミッションをもらったんですね。「お前、これから日本で初めてのことをやるんだろう? だったら今の日本にある特撮技術をすべて知っておけ」と言われて。デン・フィルムの中野稔さんに預けられたんですよ。そこで、最初にマスク切りを教わりました。

(※)『ゴルゴ13』……さいとうたかを原作の劇画。1975年より連載開始。出崎統監督による1983年の映画は日本で初めて制作にCGを導入したことで知られる。CG製作総指揮は大村。福本および前出の大野、吉村らはエンジニアとしてクレジットされている。

野口:フィルム合成のオプチカルプリンタ?

福本:ちょうどオプチカルプリンタの新しいやつを開発しようとしてたときだったし、そういう開発の状況も見させてもらったりとか、日本エフェクトセンターに打ち合わせに行ったりとか。その次は、「お前は照明のことを勉強しなきゃいけない」と、佐野武治さんという有名な照明マンに預かってもらおうかというような話が出たころに『ゴルゴ13』の企画が決まって、デン・フィルムから戻されました。その後、山本さんの下で制作見習いとして、原作者のさいとう・たかをさんに契約書を届けたり、出崎統監督との打ち合わせ、シナリオライターの長坂秀佳さんとの打ち合わせ、いろんなところに引っ張り回されました(笑)。

福本隆司

野口:そこで青山にオフィスを借りたんですか?

福本:借りたんだけどまだ空っぽで。そうしているうちに『ゴルゴ13』のためにLINKS-1の基板の量産が始まって、できたものから組み上げていき、火入れ式がその年の暮れ12月23日に行われました。

野口:LINKS-1は何が表現できたんですか?

福本:その質問は出崎監督にも聞かれましたよ(笑)。「CGでどんなことができるんだ?」って。監督が「こんなイメージで作りたい」って、スケッチして提案してくれるのですが「これは今の技術ではできません」と答えるのが悔しくて悔しくてね。たとえば、ゴルゴが超長距離でライフルを撃つときに、その弾丸がニューヨークのビル街をPOV(主観映像)で映したい、と。でも当時はメモリーが1MBしかなかったので、カメラがとらえるビル街の全景をCGで作ることなんてできるわけがない。できることといったら、モデリングとレンダリングぐらいだから、カットごとの背景の前にヘリコプターを作って飛ばすことくらい。

野口:その頃はUIなんてのもない頃ですよね。

福本:ないない。全部プログラミング。方眼紙に三面図を描いて、その点を、キーフレームをxyzの数値で入力するんです。色はRGBの0から255の数値を指定して、データ入力するという。カメラワークも、方眼紙の上に描いた軌道にxyzの数値を入れる。軌道も何となくキーフレームで打てたんですよ。それにしたって、1982年6月に会社を設立して、その暮れくらいからスタッフを集めて、東京でもシステムが稼働し始めて、1983年5月公開ですからとんでもない突貫工事ですよね(笑)。

野口:すごいですよね。レンダリングするのも初めてだったのに。

福本:後から見たら段ボール箱何十箱分の方眼紙(笑)。ドーソンという敵のボスがいるビルの1部屋1部屋の内装を図面で起こすわけですよ。でも、作ったデータがレンダリングできない。だからもう、泣く泣く捨てていくわけです。

野口:レンダリングは、モニターを撮影してたんですか?

福本:そう。管面撮影です。東洋現像所の京都工場にミッチェルというカメラがあったのでそれを借り出し、それでパーフォレーションを送って、1コマ1コマ撮影して、とにかく収録する。ハードディスクもない時代でしたから。

SIGGRAPH、海外アーティストとの人材交流

野口:今のデジタル環境では想像できてない制作手法ですよね。トーヨーリンクスといえば次に『Bio-Sensor』の制作が有名ですが、監督が福本さん、CGデザイナーとして林弘幸さんと木村卓さんですよね。この作品はどのように制作されたのでしょうか?

福本:阪大のキャンパスの近くに会社がアパートの一室を借りてくれて、アルバイト2名を雇ってデータ作成を行いながら、そこから大学に通って『Bio-Sensor』を作っていたんです。

野口:『Bio-Sensor』はSIGGRAPHで上映されて評価されたんですよね。

福本隆司

福本:はい。1984年のSIGGRAPHでトップ上映されました。三次元のアニメーションのソリューションがなかった時代に出したからスタンディングオベーションでしたね。移動動物園で鶏肉をエサにトラがまっすぐ歩くようにさせたんです。それを正面のカメラと側面のカメラが捉える。そうするとxy面とxz面が撮れる。それをロトスコーピングできれば三次元のアニメーションが作れる、と。虎ってネコ科だから、動くと肩甲骨が離れるんですよね。そういう動物的な柔らかい動きが表現できたから、海外の人がビックリしていました。同じSIGGRAPHに出品されたのがジョン・ラセター(John Lasseter)の『アンドレとウォーリーB.の冒険(The Adventures of Andre and Wally B.)』。実はSIGGRAPHに行く前にサンフランシスコに立ち寄ってルーカスフィルム(Lucas Film)を訪ねたんです。そのときロブ・クック(Rob Cook)にアポを取って彼がルーカスフィルムの中を案内してくれたんだけど、「日本人がこんなの作ってきた! みんな来い!」って、コンピュータディビジョンにいた技術者たちがみんな集まってきて。翌年(1985年)の、第1回広島国際アニメーションフェスティバルでは、『スター・ウォーズ』のCGシーンでプログラミングを担当したラリー・キューバ(Larry Cuba)(※)にも会うことができて、この頃から世界中のCG制作者や開発者たちとつながっていきました。

(※)ラリー・キューバ……1950年アトランタで生まれ。カリフォルニア芸術大学で修士号を取得。1975年、ジョン・ホイットニー、シニア(後述)とともに『アラベスク』を制作。1977年公開の『スター・ウォーズ』ではデススターシーケンスを制作。現在はロサンゼルスの映像アーカイブ非営利団体「iotaCenter」の取締役を務めている。

野口:やはり当時は凄かった。世界中からみても日本のCG表現が世界と戦っていた時代ですよね。『Bio-Sensor』の次のトーヨーリンクスの大きな仕事というと、何になりますか?

福本:1985年3月からの「つくば万博」(※)の富士通パビリオンでの『ザ・ユニバース』ですね。会社としても『ゴルゴ13』で組んだシステムと集まったスタッフを回していく必要がありました。当時、電通に加藤圓さんという博覧会映像をプロデュースされていた方がいて、彼が持ってきてくれたんです。アナグリフ方式(※)でしたが、全天周で世界初の立体3D映像を作って、それをIMAX社のOMNIMAXのプロジェクターで上映したわけです。

(※)「つくば万博」……1985年開催の国際科学技術博覧会。茨城県の筑波研究学園都市で開催(会期:3月17日〜9月16日)。テーマは「人間・居住・環境と科学技術」。日本を含む48ヵ国と37国際機関,国内から 28の民間企業・団体が参加。入場者数は 2033万人を数えた。『ザ・ユニバース』(10分)は3次元、全天周、CGを統合した世界初の映像として技術者から一般の観客までをも魅了し、博覧会の終了後も世界各地の科学館やプラネタリウムで長年に渡って公開される大ヒット作となった。

(※)アナグリフ方式……立体視の手法の一つ。1つの画像の中に右目用と左目用の2つの画像を色違いに重ねて入れる方法。一般的に赤と青を用い、観客はそれぞれの色のフィルムが入ったメガネを使用して鑑賞する。そのためこの方式はモノクロ映画に限られる。『ザ・ユニバース』もモノクロ映画だったが、『ザ・ユニバース2~太陽の響~』はオルタネート方式を用い、カラーで制作。大阪・国際花と緑の博覧会(1990年)で公開された。

野口:この頃になるとだいぶ一般の方にもCGというものが浸透してきた頃では?

福本:そうですね。CGが一般に認知されるという点で『ザ・ユニバース』の影響は大きいと思います。富士通館とサントリー館が1位、2位の人気を競っていて、それが海外でも話題になって、その後、『ザ・ユニバース』は海外のプラネタリウムを巡回していくことになりました。

野口:『ザ・ユニバース』では、コンピューティング・ディレクターとしてネルソン・マックス(Nelson Max)(※)さんが参加。国際色豊かな制作環境ですが、その後トーヨーリンクスには、Triple IやDigital Productionsで活躍されていたアート・デュリンスキー(Art Durinski)(※)さんが鈴木美智子さんと共に来ました。

(※)ネルソン・マックス……コンピュータ・グラフックス分野の基礎を作った研究者。1967年にハーバード大学で数学の博士号を修得。カリフォルニア大学付属のローレンスリバモア国立研究所に勤め分子構造の可視化や自然物のCG画像生成などを行なう。『ザ・ユニバース』、および『ザ・ユニバース2~太陽の響~』ではディレクターを務めた。現在、カリフォルニア大学ディビス校コンピュータサイエンス学科教授。

(※)アート・デュリンスキー……1947年シカゴ生まれ。CG黎明期から活躍する世界的に著名なパイオニア。『トロン』(1982年公開)のビジュアルエフェクト、短編『渚のペピー』(1987年)監督。日本映画『眠る男』(1996年公開) や、『埋もれ木』(2005年公開)でもVFXスーパーバイザーを務める。

福本隆司

福本:やっぱり、トーヨーリンクスにいるのが日本の自分も含めて無名のクリエイターたちだけだと、東洋現像所の経営者は心配だったと思うんです。それでアメリカで実績のある人を連れてきて、もっと日本の広告業界とかの大きい仕事を取っていこうと。事実、彼らはそういう仕事を取ってきましたから。ゼロックスの仕事とかホンダの仕事とか、「It's a Sony」のTVCMの最後に出るイクラみたいな企業ロゴもそう。あれは「B」マークをメタボール(※)で作ったものです。今見ても綺麗ですよね。

(※)メタボール……3DCGのモデリング手法。2個以上になると互いに融合し合って複雑な形状になる球。液体や粘性の高い物質の滑らかな変形や動きを表現する手法としてよく用いられる。映画『ターミネーター2』(1991)の液体金属で広く知られる。

野口:メタボールは当時、リンクスでしかできなかったわけですからね。

福本:うん、濃度球表現は他にもあったけど、商業ベースではできなかった。実際にたくさんの作品に用いられ、メタボール・アルゴリズムとして定着したわけです。当時、河口洋一郎先生のグロースモデルのために阪大で開発してた「メタクタル」というフラクタル理論の考え方を導入した物体形状表現手法があるんですが、いま見返してもユニークですよね。

野口:メタボールをまともに計算しようとすると膨大な計算量になるけど、阪大のアルゴリズムはそれを省力化できる計算式を見つけたというわけですね。

福本:そう。レイトレーシングで効率よく処理できる技術を開発していた。一方で、『ゴルゴ13』や『ザ・ユニバース』をやって、いちユーザーとして阪大のオリジナルのソフトウェアにいろんな不満があったわけですよ。だから今度は自分が企画書を作って、そのレンダリングシステムを改良したい、と。そのための質感プロジェクトを自分が中心になって立ち上げました。それで「光はこういうふうに見えなきゃいけない」といった改良点を技術者に伝えて、改良してできたレイトレーシングのレンダラーが「TRACY」。それを初めて自分で使ったのは、1986年の中島信也さんとの初仕事。「プロテア」という資生堂のシャンプーのCMなんですけど、あのボトルはすごく難しい質感だったので、「TRACY」でレンダリングしたんです。それがオンエアされたらJCGLの大口さんから電話かかってきて「あれはどうやって作ったんだ!?」って(笑)。

野口:当時、JCGLはレンダリングをどうしてたんですか?

福本:JCGLは最初ニューヨーク工科大学のシステムを使ってたけど、途中で裁判沙汰になっちゃったので放棄するしかなくて。そのときのオハイオ州立大学で開発したものがやっぱり会社化してて、クランストン・スーリー・プロダクションのC/CPのシステムを使っていましたよね。で、'80年代の後半になるとJCGL独自で開発が始まったんですよね。そう、「ENERGE」というソフトウェアで、販売も計画していましたね。

野口:そうこうしているうちにJCGLは倒産してしまったわけですね。

福本:1987年の秋口かな。CGというものがようやく認知されてきて、CGプロダクションに入りたいという学生さんが出てきたときに学生の間からそういう噂が聞こえてきて。ショックでしたね。だって、'80年代初頭からあった2社でライバルでもあった相手方だったわけですから。

野口:やっぱり、その頃のCG会社はまだ黒字には全然なってない?

福本:なっていないですね。だって、アメリカのディズニーの『トロン』(1982年公開)を制作した4社、Triple I(Information International, Inc.)、Digital Effects、Robert Abel and Associates、MAGI。これらすべて経営破綻しましたからね。やっぱり、それだけ当時のコンピュータは高いし、それで利益を出すのがすごく大変だった。

野口:よくリンクスも頑張りましたよね。

福本:でもリンクスも、トーヨーリンクス、リンクス(1988年4月1日設立)、リンクス・デジワークス(2000年4月3日設立)と会社の体制を変えつつ制作を続けていました。もうちょっと補足すると、トーヨーリンクスはエンジニアもクリエイターも一緒にいた会社ですね。自分はもうその当時ディレクターを目指していたので、CGの場においてディレクターの作品作りをサポートするテクニカルディレクター(TD)がいなければ成り立たないということが実感としてありました。それが『Bio-Sensor』のときは西村仁志で、トーヨーリンクスになってからは吉村浩だったりするわけです。

野口:『渚のペピー』(1987年)はどのようにして作られたのでしょうか?

福本:アート・デュリンスキー(Art Durinski)と美智子さんが来て、彼らとはよく渋谷あたりに出歩いていたんですけど、今でもある「ピンクドラゴン」という面白い雑貨屋さんがあって、そこでパイナップルのキャラクターの絵が描かれたステッカーを見つけて、「面白いからこれで何か短編作ろうよ」っていう話になって、お店と交渉してウクレレを弾いてるパイナップルを作ったという経緯です。

野口:あれが日本で初めての、CGキャラクターでのショートフィルムだったのかな、と。

福本:まあ、実験も兼ねてますけどね。あのファーストカットは1フレームあたりレンダリングに20時間くらい掛かりましたけど。ガラステーブルの上にグラスが乗っていて、そのなかに氷入りのソーダが入っているという、何重にも透過屈折・反射が生じるわけです。それをどこまで耐えられるのか実験してみようと(笑)。あとウクレレの弦にモーションブラーもつけています。『渚のペピー』はその後の1987年のSIGGRAPHで初めて公開しました。

野口:その後、『渚のペピー』の後は1989年の横浜博の「三菱未来館3D」までリンクスに在籍されていた?

福本:横浜博と名古屋の世界デザイン博「CG水族館」の準備をしつつ、リンクスでの最後の大仕事は、瀬戸大橋博(1988年)です。タダノという香川の建設クレーン会社がクライアントになって、『TADANO SPACE PORT』というライド系アトラクションの3分間のシアター映像を作りました。CG動画に連動して搭乗したカプセル全体が6軸の油圧制御によって動くというもので、その企画から演出までを行いました。

CG企業理想の三角錐とは?

野口:その後、ポリゴン・ピクチュアズへ転職をされました。確か、ポリゴンさんは設立当初はCGプロダクションではなかったですよね?

福本隆司

福本:ええ。河原敏文(※)さんのデザイン事務所でした。ただ、彼はロバート・エイブル(Robert Able)(※)とも仲良しなんですよね。というか、ふたりの共通点はUCLAで教鞭をとっていたジョン・ホイットニー・シニア(John Whitney Sr.)(※)だから。それで彼はずっとコンピュータグラフィックスをやりたかったんですよ。

(※)河原敏文……1950年京都市生まれ。関西学院大学英文科卒業後、力リフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)芸術学部デザイン科大学院修士課程終了(M.A.)。デザイン科の助手として同大学院のビデオ、コンピューター・グラフィックス部門で学生の指導、研究に携わる。1977年、帰国後、五十嵐威暢デザイン事務所に勤務。1980年に独立。1983年、株式会社ポリゴン・ピクチュアズ設立。初代社長に就任。

(※)ロバート・エイブル……1937年クリーブランド生まれ。ジョンホイットニーの弟子として、1950年代にコンピューターグラフィックスの仕事を始め、『2001年宇宙の旅』(1968年公開)の視覚効果を手がけた一人であるコン・ペダーソンと1971年にRA&Aを設立。アナログ・コンピュータ、モーション・コントロール・カメラとスリット・スキャン技術を駆使してテレビ、映画、CFに映像を提供した。後にCGを導入し『トロン』のシステムスーパーバイザーを務めた。

(※)ジョン・ホイットニー・シニア……1917年カリフォルニア州ロサンゼルス郡パサデナ生まれ。1960年代に機械式アナログコンピューターを使用して、映画やテレビのタイトルシーケンスやコマーシャルを作成。『カタログ』(1961年)としてまとめる。また、スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968年公開)ではスリット・スキャンシステムを構築しスターゲートのシーンの制作に貢献。1972年からUCLAでコンピューターグラフィックを教えていた。

野口:河原さんにはどのような構想があったのでしょうか?

福本:1988年頃、彼は恐竜をキャラクターにしたミュージカル映画を作るという企画を練っていたんです。それを大村先生に相談していて、僕に話が回ってきました。自分も恐竜好きだったので、「福本くん、こういうプロジェクトに興味あるだろう?」と。最初は手伝う程度だったんですけど。

野口:河原デザイン事務所は、ポリゴン・ピクチュアズの名前になる前からCGは始めていたんですよね?

福本:いいえ。1983年に法人化されポリゴン・ピクチュアズとなりましたが、事業としてはまだでしたね。ただ、ゆくゆくはと考えて準備はしていました。僕が手伝いはじめたときには、リンクスが開発したパーソナルリンクスや、ソニーのNEWSというワークステーションを借りたりとか。あとはSUN-3、SUN-4を借りていましたね。

野口:そういえばSUNもNEWSもリンクスのソフトウェアに載ってましたね。福本さんは当時、何をしようと考えて転職されたのですか?

福本:自分の人生設計として30代はディレクターをしたかったんです。トーヨーリンクスの時代はエンジニアたちが一緒にいたのですが、彼らは会社がリンクスになったときに、「ここはもうプロダクション/制作会社だから」ということで、親会社のIMAGICAに異動になってしまったんです。ここでちょっと遠回りになりますが、ハリウッド映画の制作体制の話をさせてください。彼らのシステムというのはプロデューサーとディレクターの二極管理だと言われています。ディレクターが「I want…=こういうふうにしたい」というのに対して、プロデューサーは「Yes/No」で答える。工場で例えるならば、品質管理をディレクターがやって、予算管理と進捗管理はプロデューサーが見る。でも、CGやVFXを多用するような映画の場合、それに加えてテクニカルディレクターが要るわけです。'80年代、'90年代にこのトライアングルがしっかりできている会社って、世界中を見渡してもピクサー(PIXAR)しかなかったんじゃないかなと思うんですよね。

野口:それはピクサー(PIXAR)設立当初から?

福本隆司

福本:『ルクソーJr.(Luxo Jr.)』(1986年)の後かな。短編のクレジットを全部調べたんですよ。『レッズ・ドリーム(Red’s Dream)』(1987年)、『ティン・トイ(Tin Toy)』(1988年)、『ニックナック(Knick Knack)』(1989年)のあたりから、プロダクションコーディネーターのところにラルフ・グッゲンハイム(Ralph Guggenheim)という名前が出てきます。彼は『トイストーリー(Toy Story)』のリードプロデューサーです。そしてディレクターは『アンドレとウォーリーB.の冒険(The Adventures of Andre and Wally B.)』の頃からずっとジョン・ラセター(John Lasseter)。そしてテクニカルディレクターはずっとウィリアム(ビル)・リーブス(William “Bill” Reeves)ですよ。これに加えて技術に明るいエド・キャットマル(Edwin Catmull)という博士号を持った社長がいるわけです。

(※)ラルフ・グッゲンハイム……1951年、ニューヨーク生まれ。カーネギーメロン大学でコンピューターサイエンス修士。その後、ニューヨーク工科大学コンピューターグラフィックラボを経てルーカスフィルム勤務。1986年、ピクサーを共同設立。1997円にピクサー退職後はElectronic Artsで取締役を務める。現在はアリゲータープラネットでCEOを務めている。

(※)ウィリアム(ビル)・リーブス……1959年、カナダ・トロント生まれ。トロント大学で博士号を取得。ルーカスフィルム入社の後、ピクサーを共同創業。モーションブラーアルゴリズムとパーティクルシミュレートを考案。『ティン・トイ(Tin Toy)』でアカデミー賞短編アニメーション映画賞を受賞。『トイ・ストーリー』ではテクニカルディレクターを務めた。

(※)エド・キャットマル……1945年ウェストバージニア州生まれ。ユタ大学で物理学とコンピューターサイエンスを学び、CGの開祖であるアイバン・サザランドに師事。ニューヨーク工科大学にてコンピュータグラフィックスラボを設立。1979年、ルーカスフィルムに移籍する。1986年、スティーブ・ジョブズによってルーカスフィルムのデジタル部門が買収され、ピクサーを共同設立、社長を務めたほかレンダリングソフトRenderManの主要開発者として関わる。2006年よりウォルトディズニーアニメーションスタジオとピクサーアニメーションスタジオの社長を務め、2018年に引退。2019年、チューリング賞を受賞。

野口:確かに強力な三角錐ですよね。

福本:そう。これが強いチームの体制づくりだと。そこでプロデューサーが河原さん、ディレクターが僕。そこにテクニカルディレクターがほしかったんです。それでJCGL出身の加藤俊明とかトーヨーリンクス出身の芳田朗や島本達也(ネメシス)と組みたかったんですね。さらにオリジナルのソフトウェアを開発しよう、と。最初に恐竜で物語を描きたかったので、名前も「メソゾイック(Mesozoic=中生代)」と、恐竜の時代にちなんでいるんです。「メソゾイック(Mesozoic)は、システムの総称で、モデリングパートは「トライアス(Trias=三畳紀)」、アニメーションパートは「ジュラシック(Jurassic=ジュラ紀)」、レンダリングパートが完成したら「クリテシアス(Cretaceous=白亜紀)」という名前になる予定でした。

野口:その頃のポリゴンは、寺田倉庫内にあった凄いオシャレ・スタジオだった記憶が?

福本:そうです。それでもう一人、トーヨーリンクス側からは遠藤増春っていう、これはアニメーションを開発させたかった男。で、レンダラーは西村仁志に開発させたかった。っていう自分の初期プランが見えてくると思います。

ポリゴン・ピクチュアズ、ビッグバンプロジェクト

野口:加藤俊明さんはこの頃に合流した?

福本:そうですね。JCGLが解散して、そのチームを引き受けたのがナムコですよ。で、河原さんがすごいのは、ナムコの中村雅哉社長に直接交渉しに行って、加藤俊明を貸してくれるように説得して、開発を実現させたんです。だから、いま振り返ってもモデラーはすごくユニークだったと思いますよ。たぶん世界ではじめて「スケルトン」という概念を採り入れたから。恐竜のかたちは隠してアルファベットのX,Y,Z,Oの4つの文字で実験しましたけど、すごく分岐が綺麗なんですよね。どんなふうにねじっても壊れない。それはどちらかといえば島本のアイデアなんですけどね。その当時のNICOGRAPHの論文に出てます。加藤俊明のスケルトンの考え方と、それをポリゴンが破綻しないように動かす分割の仕方っていうふたつ。

福本隆司

野口:筋肉みたいな動きをさせていたCGですか?

福本:それは二作目で自分がチャレンジしたかった表面変異ですよね。自分が中心となって関わった作品で、ある日加藤俊明と二人で会社に泊まったときがあって、彼がいろんな実験をしていてそれを見ていたらひらめいて、一晩でサムネイルを描き上げたんですけど、それが「In Search of Muscular Axis」(1990年)です。1988年から取りかかって'89、'90、'91年と、毎年SIGGRAPHに出していた。それらの作品の中でも、自分にとってのビッグバン・プロジェクト(恐竜の映画制作とそれを実現するオリジナル・ソフトウェア開発)というのは、'88年から'93年くらいまでの5年間なんです。オリジナルのソフトウェアを開発しながら、オリジナルのコンテンツを企画提案型で作っていくっていうプロジェクトでした。そんな頃に「スピルバーグが恐竜を作っている」という話が聞こえてきたんです。

野口:『ジュラシック・パーク(Jurassic Park)』(1993年公開)ですね。

福本:その以前、『ターミネーター2』(1991年公開)のときにILM(Industrial Light & Magic)のマーク・ディッペ(Mark Dippe)(※)たちから、「2年間、『In Search of Muscular Axis』を作ったチームを丸ごと貸してくれ」というオファーがあったんですよ。でも僕らには僕らの計画があるからと断ったんです。で、マーク・ディッペ(Mark Dippe)は『ジュラシックパーク(Jurassic Park)』で視覚効果を担当しているので、その周りの話も見えてきて、これは同じ恐竜映画を作ったとしても太刀打ちできないぞと。そこで恐竜をペンギンに置き換え、1998年に長野オリンピックがあるので、それに向けていろんな企画を作っていきました。オリジナルの企画、オリジナルのソフトウェアにこだわっていました。河原さんはとにかく企画提案型でやるんだってことを言い続けていたから。

(※)マーク・ディッペ……1956年生まれ。1985年にUCLAでコンピュータグラフィックスの博士号を取得。1988年、ILMに入社後、『アビス』(1989年公開)、『ターミネーター2』(1991年公開)、「ジュラシック・パーク」(1993年公開)などのCG、特殊効果を担当。

野口:オリジナル企画でいうと『イワトビペンギン ロッキー×ホッパー』はブームになりましたね。

福本:きっかけは資生堂の「HGスーパーハード」というヘアムースのCM。あの作品で自分はCMディレクターとしてデビューしたんですけど、あの企画はCMの受託制作ではないんです。ポイントはイワトビペンギンが自社IPだということ。他の一般のタレントと同様に、ちゃんと電通のキャスティングセンターに登録してもらってるんです。ポリゴン・ピクチュアズの第1号が恐竜のマイケルで、2号がイワトビペンギンのロッキー×ホッパー。だからタレントであるロッキー×ホッパーがCMに出演するという形でお金をもらっているんです。最初は資生堂の景品の目覚まし時計とかだったんですけど、UFOキャッチャーの景品になったりしていました。高校生の間でブームになったりして、資生堂も喜んでくれましたね。それで後に他のロッキー×ホッパーグッズも発売されると、そのたびにポリゴン・ピクチュアズにお金が入ってくる。全部で200種類くらいの商品が出たかな。

野口:一般の週刊誌にも取り上げられたりしましたね。実際、若い子たちが持っているのもよく見かけました。

福本:ただ、これで何が起きるかというと、月々の制作よりもそのライセンス料でもらえるお金のほうが多くなってきてしまったんです。これは、ちょっと自分としては歪みを感じ始める頃でしたね。オリジナルのストーリー、オリジナルのキャラクター、オリジナルのソフトウェアで映像を作っていきたいという、もともとの思想とはちょっと違うなと。会社としてもそうした人を増やしてそっちのビジネスに力を入れるようになってくると、どこを向いているのかなという感じがして。

野口:オリジナルのソフトウェアはどうなりました?

福本:モデリングの「トライアス(Trias)」はけっこう活躍しました。当時のポリゴン・ピクチュアズの作品ではすごく重要だし、他にもいろんな企業が欲しがって買ってもらいましたね。

福本隆司

野口:それとポリゴンはスキャンラインが綺麗なレンダラーという印象だった記憶なのですが、レイトレーシングは開発途中でした?

福本:加藤俊明はJCGLにいたときにレイトレーシングのテストをしていましたからね。レイトレーシングというよりは、その先を見据えたレンダラーの開発計画はありました。だから彼を指名して開発と制作を行ってました。ポリゴン時代、自分がディレクターの作品のときは、テクニカルディレクターは加藤俊明ですよね。彼がリズムアンドヒューズ(Rhythm & Hues Studios)に行くまでは。また、人材面での彼の影響も大きくて、岡野秀樹や久保田孝がポリゴンに加わりました。そう考えると、’90年代前半のポリゴンは、’80年代のJCGLとトーヨーリンクスのいいとこ取りをしたかもしれませんね。

野口:福本さんは『イワトビペンギン ロッキー×ホッパー』の映画の頃まではいたんですか?

福本:企画、いわゆるプリビズリールというか、シナリオ前のコンセプトの段階まではやっていました。リールはリズムアンドヒューズ(Rhythm & Hues Studios)(※)が作るものと、日本のチームが作るものの2つがあって、日本の方を自分がまとめていました。でもプリビズで言うと、日本チームのほうが話は進んだんですけどね。あまりにもリズムアンドヒューズが作るのがカートゥーンで、自分たちは実写テイストのCGを狙っていたんですよ。

(※)リズムアンドヒューズ……1987年創業。1995年、『ベイブ』でアカデミー視覚効果賞受賞。CMや映画など動物に強いスタジオ。2013年に『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』でもアカデミー視覚効果賞を受賞。

野口:『イワトビペンギン』のプリビズリールを作っていたときのツールは先程の「メソゾイック(Mesozoic)」ですか?

福本:そうです。一方でリズムアンドヒューズ(Rhythm & Hues Studios)も自社のものを使っていました。

野口:そういう時代なんですね。みんなそれぞれにソフトウェアを開発して使っていた。

福本:そうですね。今の時代は自社でIPを持つことが重要だと言われますが、'80年代、'90年代は自社のソフトウェアの独自性が大事にされていたと思います。

野口:しかもその中で日本はかなり先進的なソフトウェアを作っていたわけですからね。かなり先を行っているというか、海外にはないソフトウェアを。

福本:その頃はアメリカと同等といっても良いんじゃないかな。『Bio-Sensor』を発表したときなんかは一番喜んだのはフランスの人だったんです。アンチアメリカ精神で(笑)。

野口:フランスのTDI(Thomson Digital Images)(※)もソフトを開発していましたよね。フランスと日本とアメリカが競ってた印象はあります。

(※)TDI……1984年創業。3Dアニメーションソフト「Explore」を開発し、長編・短編映画制作やTV番組制作なども行った。その後、ソフトウェア部門は買収され、最終的にAlias社と合併した。

福本:やっぱり科学立国で競争していた時代じゃないですか。日本は通産省が力を入れて半導体やスーパーコンピューターを作らせていたし、フランスも頑張っていたから。だからアメリカに果敢に立ち向かったということでフランスの方が喜んでくれて、いただいた賞もフランスのほうが多かったですね。

「ビジュアルアーキテクト」を育てるために

野口:その後、1999年にリンクスに戻られて2000年にリンクス・デジワークスの設立に携われました。ゲームのCGムービーやオリジナルの短編作品「KUDAN」のプロデュースをはじめアニメーション制作だけでなく、デジワークス時代ではリアルタイムの方に行かれたのが驚きでした。

福本:MRとかARですね。

野口:そうですね。あとはモーションキャプチャとか。

福本:'80年代から知ってる仲間からも「いつも5年早い」って言われるんですよ(笑)。たぶんね、新しいもの好きなんですよね。MRをやる上でひとつ大きかったのは、立命館大学の田村秀行教授(※)。彼は元通産省の技術官僚で、その後キャノンでMR事業を始めて、それから立命館に行った人。彼は映画評論家でもあるので、MRの技術を使ったプリビズ(Previsualization)を作りたいと、JST(国立研究開発法人科学技術振興機構)から開発予算を取ってきて、「このプロジェクトに入ってくれ」と口説かれたんですよ。それで結果的にこのプロジェクトに5年関わることになった。このMR-PreViz Project(映画制作を支援する複合現実型可視化技術)で再びトーヨーリンクスの初期の時のように大学での研究開発と関わったことで人材育成に回ろうと思いはじめたんです。実際の建築だったら、一級建築士とか二級建築士とか設計のプロが存在する。であれば映像だって本来イメージの設計が必要なんだから、「ビジュアルアーキテクト」みたいな人が要るだろうし、そういう人を育ててみたいなと思ったのが大学で教える側に回ろうと思ったモチベーションのひとつになっています。

福本隆司

(※)田村秀行……工学博士。京都大学工学部電気工学科卒業。通商産業省工業技術院電子技術総合研究所を経て1986年キヤノン入社。情報メディア研究所長等を歴任。MRシステム研究所の取締役として「複合現実感研究プロジェクト」を率いた。2003年より立命館大学理工学部情報学科、メディア情報学科の教授を務め、現在同大学の総合科学技術研究機構教授。
SFX Cinematic Review: www.rm.is.ritsumei.ac.jp/~tamura/sfx/

野口:設計とはどこまでだと考えていますか? 絵コンテからプリビズまで?

福本:プリビズをするためには、映画の技法というのを全部、基本から知らなきゃいけないですよね。映画の古典とか、ヒッチコックや黒澤明の映画を分析すれば、撮影とか照明、編集の技法が分かる。そうすれば設計ができると思います。

野口:設計におけるプリビズは重要なパートと考えている?

福本:でも今は境界線が変わってきている。アメリカのCM撮影とかだと、撮影現場でオンセットプリビズ、オンセットキャプチャーをやってそのまま制作しちゃうということが起きている。

野口:たしかに、撮影時でも設計できると境目もなくなってきています。

福本:『マトリックス レボリューションズ(The Matrix Revolutions)』(2003年公開)のプリビズをやったPLF(Pixel Liberation Front)(※)に行ったら、彼らは撮影の機材にも明るくて、このカメラとクレーンだったらこれだけの可動範囲がある、というあたりまでCGで再現して、カメラワークも設計している。それを見たときに、「映像も建築と一緒で設計ができるんだ」と思ったんです。それであればリアルタイムでできた方が良いに決まってるじゃないですか。レンダリングのパワーとかGPUのパワーとかだんだん追いついてきて、MRとかの技術ができてくると、その場で設計がしやすくなりますよね。立命館では東映に協力してもらって太秦の撮影所でも実験しましたよ。

(※)PLF(Pixel Liberation Front)……1995年、カリフォルニア州ベニスにて創業された視覚効果専門の会社。『アバター』(2009年公開)や『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年公開)、『アイアンマン』(2008年公開)をはじめとした映画のプリビズや特殊効果、コンポジットなどを担当する。『マトリックス・リローデッド』(2003年公開)では高速道路シーンが有名。

野口:それはさっきの田村先生のMR-PreVizプロジェクトとして?

福本:そう。やっぱり映画の世界も好きなので。短編映画『カクレ鬼』の制作で、前工程は東映のチームが、後工程は福本がプロデュースして、いろんな実験をしてそのフィードバックをお互いに行いました。プリビズ専門プロダクションのサード・フロア(The Third Floor, Inc.)(※)に行って、CEOのクリス・エドワード(Chris Edwards)といろんな話をしたりして。彼の「バーチャル映画制作の最前線」というホワイトペーパーはとても良いヒントだから学生にもよく読ませていましたよ。今ならモーションキャプチャーもいろんな方式があり、Unreal EngineやUnityといったゲームエンジンを使えばリアルタイムでできる時代。リアルタイムでそういう試行錯誤ができるんだったら、古典的かもしれないけど映画の技法をちゃんとマスターして、新しい技術で使いこなすという若いクリエイターやエンジニアを育てられたらいいなと思いますね。現実は、そんなうまくいってませんけどね。ゲームは好きなんだけどプログラムが苦手だとか……(笑)。

(※)サード・フロア……『スター・ウォーズ エピソードIII -シスの復讐-』(2005年公開)のチームが中心となり2004年、ロサンゼルスで創業。主に映画、テレビ、ゲーム、テーマ別アトラクションの制作におけるプリビジュアライゼーションの側面に焦点を当ててきたが、2010年代半ばには、ビジュアライゼーション、モーションキャプチャー、カメラレイアウト、セットでの撮影をサポートするために、バーチャル制作の専門知識を開発し、適用している。『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015年公開)、『ワンダーウーマン』(2017年公開)、『スターウォーズ 最後のジェダイ』(2017年公開)、ビデオゲーム『バイオハザード6』(2013年)など。

野口:専門学校に話を聞くと、今はやっぱりゲームを作りたい学生が一番多くて、その次がCGアニメーション。VFXはもっとも少ないですよね。

福本:(神奈川工科大学情報メディア学科の教授として)学生に教えるようになって5年目になりますが、日本の教育の問題も感じてしまいますね。日本の教育システムって文系と理工系を分けてしまうので、同じ大学でも、理系と文系の学生が交わって何かを作るなんてことは稀なんですよね。自分自身を振り返ると芸術系の大学で4年間映画の勉強をして、その後、阪大の研究室に入って両方を経験できましたが、そういう経験ができる学生はあまりいないんだよなと、教える側になって改めて思いました。アメリカのユニバーシティのように理系も文系も芸術系も、一緒に受けられたらいいと思うんですけど。

野口:CGで言えば、こうして福本さんが教えに行くことによってやっと大学でCGを勉強できる環境ができた。

福本隆司

福本:それがむしろ逆でね。CGを教えるつもりで行ったら映画の基本を教えることになったという(苦笑)。

野口:工科大だとむしろプログラミングの勉強をみっちり行うから。

福本:そうなんです。1年生のときから叩き込むんですけど、その子たちはよほど映画好きでもない限り映画の基本を知らない。逆に自分は芸術大学だったから1年の時は映画の基本を叩き込まれたんです。自分もドイツのフィルムアカデミアに行きましたけど、フランスやドイツのSIGGRAPHの常連校なんて、3~4年間きっちり映画の基本を教えて、その後でデジタルを教えるような環境ですから。

野口:そうして学生さんに教えられる立場になって、CG業界の今後の課題についてどのように考えますか?

福本:やっぱりオリジナル企画を開発することが人を育てるんじゃないかと思います。'50年代に活躍した、溝口健二、小津安二郎、黒澤明。世界に影響を与えた日本映画の三大巨匠と言われているのはその3人じゃないですか。彼らはオリジナルにこだわり続けた監督たちです。今、これだけ多くのアニメやCG作品が作られていますが、そのうちのどれくらいの割合がオリジナルでしょう? 自分がトーヨーリンクスからポリゴン・ピクチュアズに行ったのは、オリジナルのストーリー、オリジナルのソフトウェアでチャレンジできたからなんです。

野口:そうしたオリジナル企画で勝負できているピクサー(PIXAR)は中のスタッフが育っている。どんどん差が広がってしまいますね。

福本:ピクサー(PIXAR)は2人のディレクターシステムを使って育てている。あれはディズニーの『ピノキオ(Pinocchio)』(1940年公開)の頃からの歴史があって、得意なところを互いにフォローし合うことで、ディレクターも成長するというシステムなんです。日本って、どうしてもひとつの才能に寄りかかっちゃいがちなんですよね。

野口:確かにそうですね。

福本:ハリウッドみたいに裾野を広げて底上げする必要がある。彼らだってVFXの協会を作ったりとかプリビズの協会を作ったりとかして、古くからいるカメラマンだってデジタルの時代に対応するために週末にスクールに行って学べる環境も用意されているんです。そういう業界内での教育も日本には必要だと思いますね。そして、一人の才能に寄りかかったモノづくりだけでなく、先に述べたトライアングル・三角錐、プロデューサー/ディレクター/テクニカルディレクターの関係をしっかりと作ったプロダクションとか制作システムが必要だと思います。

福本隆司取材
福本隆司
1959年東京生まれ。大阪芸術大学映像計画学科卒業後、大阪大学工学部CGグループで国産初のコンピュータ・グラフィックス(CG)専用システム「LINKS-1」の開発エンジニアらと共にCGアニメーション制作に取り組む。1982年、日本の草分け的なCG制作会社(株)トーヨーリンクスに設立と同時に入社。劇場版アニメーション『ゴルゴ13』(1983)のCGシーンを制作。ディレクターとして短編アニメーション『Bio-Sensor』(1984)、『渚のペピー』(1987)、瀬戸大橋博『タダノ・スペースポート』ライド用映像(1988)など。
1989年、(株)ポリゴン・ピクチュアズ入社。オリジナルCGキャラクターの企画開発に取り組む。ディレクターとして短編アニメーション『In Search of Muscular Axis』(1990)、TV-CM『資生堂HGスーパーハード ペンギン・シリーズ』(1995-96)など。また、プロデューサーとして『ポリゴン家族』、『the FLY BanD!』(1988)など。
1999年、リンクス入社。CG制作とモーションキャプチャ事業の合併を提案、翌年 リンクス・デジワークス設立。2007年から代表取締役を務める。カプコン『鬼武者』CGムービー(2001)、同『バイオハザード』CGムービー(2002)、短編アニメーション『KUDAN』(2008)などをプロデュース。
その後、CGキャラクターと実写映像をリアルタイム合成するMR(Mixed Reality)・AR(Augmented Reality)技術を活用した事業企画や映画・CM等のプリビジュアライゼーションに取り組む。
2000年度より 大阪芸術大学映像学科 非常勤講師。
2014年 第15回広島国際アニメーションフェスティバルにて、国際選考委員長を務める。
2015年4月より 神奈川工科大学情報メディア学科 教授(現職)。
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INTERVIEWER : 野口光一(東映アニメーション)
EDIT : 日詰明嘉
PHOTO : 蟹由香
LOCATION : 東映アニメーション

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